思考過多の記録
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2000年10月13日(金) 間違った教育

 2002年に控えている学習指導要領の改訂の全容がほぼ明らかになった。敗戦直後の教育改革に匹敵する大改革だと文部省は言っている。細かく見るといろいろあるのだが、一番大きく変わるのは根本の根本、「学力観」それ自体である。ごく簡単に言うと、これまでは所謂知育偏重というやつで、要は知識量と多くの問題を短時間で解く能力の育成が教育の目標であった。従って「学力」とは、そうした能力のことを指したのである。当然の流れとして、評価方法は「相対評価」となる。自分の「学力」の絶対値ではなく、集団の中で自分の「学力」の位置を示す「偏差値」が重要視されていたわけだ。戦後何十年にもわたって、我が国は国民にこういう「学力」をつけさせようとして上から下まで走っていた。何故そうしたのか。恐ろしく単純化して言えば(そして、この単純化はそんなに間違ってはいないのだが)それは産業界が欲する人材を育成するためである。また、時の政府・与党が支配しやすい国民を作るためということもある。それが日本という国のためであり、また自分たちの既得権を守り、新たな権益を生み出すのに都合がよかったのだ。そこには本来中心に据えられるべき「子供」の姿はない。それでも、何事もうまくいっていた(ように錯覚できた)。
 ところが、これを長く続けていくうちに様々な矛盾が吹き出してきた。もはや誰の目にも教育の機能不全は明らかで、隠しおおせることはできなくなったのだ。そして、今文部省が目指している「学力」はこれまでと180°違う。今度は「生きる力」だそうである。その定義はきわめて曖昧なのだが、これまでの知育偏重から脱却し、自分で課題を設定して解決することのできる能力を養おうというのである。国の教育方針が大きく転換したのは理由はいくつか考えられるが、これまた恐ろしく単純化して言ってしまえば、やはり産業界が欲する人材を育成するためである。産業界の必要とする人材の質が、時代の流れや経済情勢の変化等によって大きく変わったのだ。民間教育の実践化や現場の先生や親や子供自身がこれまでどんなに大声で叫んでも殆ど耳を貸そうとしなかった行政が、こんなに大きく舵を切るのはそれ以外に考えられない。冷徹な政治力学の結果である。こうなると、当然評価方法も変わらざるを得なくなり、学習目標に対しての到達度を測る方法に変更されそうである。こうなると、クラス全員が目標をクリアすればクラス全員が100点という、夢のような事態あり得るのだ。当然これには反発もあるのだが、それは子供の親から結構多く出ているとも聞く。「差がつかないのは困る」ということらしい。さらにその理由は、「自分の子供がどの中学(高校)を受けていいのか分からなくなる」ということだそうだ。こんなことを言っている親というのは、実は僕達の世代である。その僕達は、紛れもなく「偏差値」で育った「共通一次世代」なのだ。
 教育とは恐ろしいものである。一番感受性の豊かな少年時代や思春期に刷り込まれた「偏差値信仰」という価値観は、大人になっても消えずに僕達の思考や行動の根底に残る。信仰の内面化である。一度かけられた色眼鏡に慣れてしまうと、世界はそういう色にしか見えなくなってしまうのだ。余程意識的にならない限り、僕達はそんな価値観を植え付けられているということ自体に気付けない。そして、知らず知らずのうちに自分達の子供(=次世代)に同じ価値観を植え付けてしまうのだ。
 しかも、その価値観は間違いだったといわれているのだ。確かに、教育にパーフェクトというものはない。何しろ、人間が人間を育てるのである。試行錯誤があるのもやむを得ない。失敗を繰り返しながら、人間はよりよい教育の方法を見つけていくのだろう。ありきたりの「進歩」の法則だ。だが、ことは生身の人間を育てる話である。間違った教育の結果、問題のある人間ができあがったとする。後世の人間がそこから何らかの教訓を学ぶのもよいが、間違った教育を受けた人の人生はどうなるのだろうか。誰も、未来の実験台になるために生きているわけではない。
 「偏差値信仰」という不治の病と戦いながら、僕はこれからの人生を生きていかなければならない。一体この責任を誰がとってくれるのだろうか。これについては産業界も政府・与党や有識者達も、黙りを決め込んでいる。


hajime |MAILHomePage

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