思考過多の記録
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2000年10月16日(月) ニュートラル

 仕事にせよそれ以外のことにせよ、何らかの活動をしている人の中には、大雑把に言って、初めからポリシーを持ってやっている人と、他人に誘われたり成り行きでやっているうちに抜けられなくなった人の2種類の人がいるように思う。前者の人間は、自分の意思でやっているのだから当然最初から意欲も適性もある。それに対して、後者の人間は(特に当初は)概して意欲も低く、適性も必ずしもあるとは言えない。常識的に考えれば、前者の人間は活動を成功させ、継続していくのに対して、後者の人間は失敗したりやる気をなくして途中で脱落する者が多いということになる。ところが、実際はそうとばかりもいえない。
 かつて僕の出身高校で演劇部の顧問だった先生は、もともと演劇には全く縁のない方であった。それが、前顧問の先生(この方は演劇にそれなりに造詣が深かったようである)が異動になったため、同じ教科を教えていた関係で後任に選ばれたのである。同じ教科内に演劇好きな先生がもう一人いらっしゃったのだが、その前年に他校で開かれた地区発表会に参加する僕達の荷物をこの先生がトラックを借りて運んでくださったのが、顧問を引き継がされる決め手になったのかも知れない。だから、先生はその当時「運転手から昇格した」と仰っていた程である。先生は元々山岳部の顧問でもあり、実際に学生時代登山の経験もあった。だから、本来はそちらが専門であり、山岳部では技術的なことも含めて指導なさっていたようである。一方演劇部では、専門的な知識を全く持たない先生は、技術的なことは指導できない代わりに、部員の活動がやりやすくするための様々な環境整備や部員達の精神的なケア等、あくまでもサポートにまわった。部員達も先生を慕い、頼りにしていたようである。その結果、その先生が異動で学校を去るまでの4年間に、本腰を入れた山岳部の活動は停滞した(先生ご本人の弁である)のに対して、それまで決してメジャーな存在ではなかった演劇部は校内での観客動員を伸ばし、2度の県大会出場を果たすなど目覚ましい活動をしたのだった。勿論これは先生一人の力ではなく、当時の部員達の活躍によるものだ。だが外から見ていると、演劇部が充実した活動ができた要因のひとつとして、先生の陰の支援ははずせないように思う。
 この先生の後任の顧問の先生は、やはり同じ教科から選ばれたが、同じように演劇とは全く縁のない先生だった。この先生は「俺はやっても1年だ」と公言なさっていた。「前任の先生みたいなのを期待されても困る」とも仰っていた。ところが、部員達の活動を目の当たりにしたわずか数ヶ月間で、先生は前任の先生と殆ど同じくらいかそれ以上の情熱で、演劇部の活動をサポートするようになったのである。演劇部の活動に引き込まれてしまったという感じだった。結局この先生も、異動で学校を去るまでの2年間顧問を務めてくださったばかりか、異動先の学校でも数年にわたって演劇部の顧問をなさっていた。
 別に好きだったわけでもないのに、ひょんな事から携わったことが思いもかけず長続きしたり、その人の人生を左右したり、多くの人に影響を与える例はたくさんある。いつでもやめていいと思いながら「笑っていいとも」を長寿番組にしているタモリや、バラエティーの進行しかやったことがなかったのに、畑違いの「ニュースステーション」を成功させた久米宏などもそうだろう。著名な数学者が子供の頃は算数嫌いだったりするというのもよく聞く話だ。おそらく、こういう人達には過剰な気負いがないのだろう。リラックスすることで本来のその人の力がフルに発揮されるのだ。また、自分達の活動に対する過剰な期待や思い込みが少ない。だから「こんな筈ではなかった」という失望から活動をやめたり、「こうあるべきだ」という教条主義・形式主義に縛られたりするることもない。だから、自由な発想で大胆な試みができる。そして、それが成功に結びついたりするのである。かつての日本の左翼運動の失敗は、これができなかったことが原因なのではないかと僕は思っている。
 かくいう僕自身、かつては演劇など全く関心がなかった。どちらかというと演芸を志していたのである。それが、中学時代に本当に出来心で予餞会の学年劇のキャストをやったのがきっかけで、今では演劇をはずした人生は考えられないという人間になったのである。人生どう転ぶか分からない。自分の考えているのとは別の所に適性があったりする。何事もニュートラルな姿勢で行く方がよい。だがこれが言うは易く、行うは難い。意欲があればある程、ついついギアをトップに入れて突っ走ってしまう。僕の恋愛の失敗は、いつもこのあたりが原因のようである。


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