思考過多の記録
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「人間は、単にその父母の子供であるばかりではなく、彼等が生まれ育った時代の機械科学の状態に基づく諸制度の産物でもある」と書いたのは、サミュエル・バトラーという人である。具体的な例を挙げれば、僕達の世代は、生まれながらにして自分自身の生物学的な目の他に、もう一つ「テレビ」という〈目〉を持っているということだ。僕達の親の世代はせいぜいラジオであり、祖父母の世代は新聞という、どちらも〈耳〉止まりであった。勿論、これらの存在ですらも、そのさらに前の世代の人間にとっては驚きである。例の浅野匠頭の松の廊下での刃傷沙汰を、地元にいる大石内蔵助達が知るのは数日後であり、すでに本人の切腹後である。もしこれが今なら、事件発生後1時間以内に赤穂藩士達は事件の概要を知ることができたであろう。 自分の部屋にいながらにして地球上のあらゆる場所から(時には宇宙空間から)の情報を、映像と音声付きでリアルタイムに受け取ることができる。しかも24時間ひっきりなしに、何百というチャンネルが全く違う情報を流し続けている。それが当たり前の環境に僕達は生まれ育った。この「テレビ世代」とそれ以前の世代とでは、物事を‘認識’する仕方が全く違っているといわれる。テレビ世代は感覚的な刺激を好み、落ち着き(=集中力)がないのが特徴だそうだ。さもありなん。僕達には次々に変わる番組と、その番組を中断してほぼ10数分おきに入るCM(これも15〜30秒の長さのものをたて続けに3、4本)が繰り返されるテレビのテンポが刷り込まれてしまっているのだ。このことは、あらゆる分野に影響を及ぼしている。例えば、テレビの普及以前とそれ以降では、所謂歌謡曲のテンポは、格段に上がっているという。ただ、僕達の親から上の世代は、テレビの存在を相対化できる年齢でテレビと出会っている。認識能力が完成してからなので、生な形で影響を受けることはない。どんなにテレビ漬けの生活を送っていても、親達の世代の根本は〈ラジオ・新聞的認識〉であり、それを拭い去ることはまず不可能である。同様に、僕達もまた〈テレビ的認識〉から逃れることはできない。そして、僕達と親の世代、言い換えれば〈テレビ以前〉の人間と〈テレビ以後〉の人間とは、決してお互いの認識を追体験したり、正しく理解し合うことはできない。分析できることと、それが実感として分かることとは全く別なのだ。この意味において、僕達は〈テレビ以前〉の世代と断絶している。これはテレビだけではなく、電話についてもいえることだ。 そして、僕達と僕達よりさらに下の世代とは、〈ゲーム以前〉と〈ゲーム以後〉や、〈ネット(またはパソコン)以前〉と〈ネット(またはパソコン)以後〉といった断絶がある。少年による凶悪犯罪が起こるたびに、テレビゲームやインターネットの影響ということが言われる。彼等は虚構と現実との区別がつかなくなったのだというのが、その論旨である。それに対して、それは単なる悪者探しであるという反論が出る。僕はそのどちらもが正しいと思う。案外〈ゲーム以後〉や〈ネット(またはパソコン)以後〉の世代の人間達は、本当に虚構と現実との区別がつかなくなっているのかも知れない。だが、それは普通言われるのとは全く違ったレベルにおいてであると僕は思う。おそらく彼等にとっての「現実」と、僕達の「現実」とがそもそも全く違っているのだ。そして、そのどちらがより正しい「現実」だとか言うことはできない。「現実」という概念そのものが変わったのである。現実と虚構との境界線の位置が移動してしまったのだ。そして僕達の世代には、それを感じ取ることができない。これが断絶ということである。 メディアは今後とも発達し、飛躍的な進化を遂げるであろう。その進化のテンポが速まれば速まる程、世代間の断絶は至るところに、それも短い間隔で現れることになる。しかし、だからといって僕達は決してそれ以前の状態に戻ることはできない。メディアはもはや僕達の認識を作り出す感覚器なのである。まことに僕達は「生まれ育った時代の機械科学の状態に基づく諸制度の産物」である。それを悲劇ととらえるか、幸福な状態ととらえるかという選択の自由は残されているとしても。
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