思考過多の記録
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「大貧民」というトランプゲームがある。このゲームは、開始に先立ってその前のゲームの1位(大富豪)と2位(富豪)の人間が、最下位(大貧民)と最下位から2番目(貧民)の人間からいいカードを貰えることになっている。その代わりに、大富豪は大貧民に、富豪は貧民にそれぞれ悪いカードを渡すのだ。その結果、ゲームの勝者は次回もいい持ち札で勝負ができるが、敗者は不利な条件で次のゲームに臨まなければならなくなる。ここにはあからさまな搾取の構図がある。トランプゲームの話なら笑って済ませることもできる。だが、これが人生だとしたらどうだろうか。 戦後民主主義教育で育った僕達は、人間は皆平等であると教えられてきた。だが、年齢を重ねるにつれて、これが真っ赤な嘘だということを大多数の人間は思い知らされることになる。どんなに頑張ったところで、学力や才能の個人差はそう簡単には埋められない。誰もがサッカー選手になれる程の高い運動能力を有してはいないし、かといって誰もが東大法学部を出て官僚になれる程の頭脳を持っているわけでもない。持って生まれたものの差は如何ともし難いのである。 それに加えて、個々人の置かれている環境もまた千差万別である。勉強熱心な親に育てられ、様々な知識に触れる機会の多い子供は、必然的に学校の成績もよくなり、上位の学校に進んでいい職業つく確率も高くなる。同様に、専門的な技能を持った親の子供は、才能と同時にそれを延ばす環境をも手に入れることになり、親と同じかそれに類する道で才能を大きく開花させることになる。いろいろな意味での‘コネ’もあるだろう。こうして、優れた音楽家の家系からは著名な音楽家が生み出され、かつてのオリンピックのメダリストの息子がオリンピックに出場し、政治家の息子は政界入りして活躍する。実際、高学歴の親の子供がレベルの高い大学に入学する比率というのはここ最近高まっているし、大企業の管理職の親はやはり管理職であるケースが多いそうである。 それだけではない。何しろここは資本主義の国である。僕は仕事柄学校に出入りして教師と話をする機会が結構あるが、低所得者層が多く住んでいる地域の学校と、比較的所得の高い人たちが住んでいる地域とでは、明らかに子供の学力が違うそうなのだ。親が低所得=最終学歴が低い=子供の教育レベルが下がるという図式が成立している上に、塾や習い事に通わせる経済的余裕もないので、ますます学力がつかない結果になる。こうして、環境的に恵まれている家庭の子女との差がつき、それが年齢が上がるにつれて徐々に広がっていくというわけだ。こうして、富める者、才能のある者達は既得権を守りながらますます栄え、そうでない者達は社会の底辺近くに居続けることになるのだ。悲しき大貧民ゲームである。だが、こうして階層流動性を失った社会は活力を失い、やがて衰退していくことになる。 勿論、「大貧民」においても悪いカードから自分の才覚と運で大富豪にのし上がる人間はいる。実社会においても然りだ。そういう人間こそ、その道での本当の実力者であり、生き残っていく価値があるのだろう。それもままならない僕のような人間は、自分のカードの悪さを嘆きながら、いつしか大貧民の位置に居心地よさを感じるような「敗者」として生きていくしかないのだろうか。いつの日かこのゲームのルールが変わる日が来るのを夢見ながら…。 そう、人間は、断じて平等なんかではないのである。
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