思考過多の記録
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その朝、僕はいつもより10分程早い電車に乗った。都心とは反対方向へ向かう電車は、いつもなら副都心へ通うサラリーマンやOL達、また郊外のキャンパスへ向かう大学生達で比較的混んでいる。しかし、その朝は少し、いや、だいぶ様子が違った。僕が乗り込んだ車両は、遠足へ向かうと思しきジャージ姿の小学生達で一杯だったのだ。ぎゅうぎゅう詰めではないものの、座席の殆どが占領されていて、立っている子供もいるという状態である。僕はとっさに、まずいところに乗り合わせてしまったと思った。しかし程なく、どうもいつもと様子が違うということに気付いた。普通遠足へ行く小学生の集団と乗り合わせてしまったら、あまりの喧噪に本を読むことも眠ることもままならず、ひたすら拷問のような時間にに耐えなければならないものである。ところが、その朝の小学生達は奇妙に大人しかった。私語をする者はごく少数で、それも小学生にありがちな、甲高い、叫ぶような喋り方ではない。ジャージに縫いつけられた名札から、彼等は4年生だと分かった。なぜこの子達はこんなに静かなんだろうと訝る僕の目に、さらに不思議な光景が飛び込んできた。1人の女の子が、何の脈絡もなく突然席を立ったのだ。すると、それに促されるように、あちこちで子供達が席を立ち始めた。僕の前にも空席ができた。車両の前の方をみると、小学生で埋め尽くされていた筈の座席にはいつの間にかサラリーマン達が座り、その前に子供達の固まりができていた。 僕は自分の目の前の空席に腰を下ろしながら、漸くこの事態を理解した。この子供達は、電車の中での過ごし方を学校で散々教え込まれていたのだ。電車に乗ったらお喋りをしてはいけません。大人の人が自分の前に立ったら席を譲りましょう…。そういえば、明らかに教師と分かる筈の大人の姿も、何故か見えない。普通は子供達と話をしていたりするのですぐ分かるのだが、どうやら教師までもが私語厳禁の教えを実践しているようなのである。と、これがどこかの校長が新聞に投書した文章なら、間違いなくこの話は美談として扱われ、「公共心がない子供が増えている昨今、久しぶりに出会った清々しい光景であった。日頃の先生方の指導の成果であろう」などと結ばれてしまうところだ。しかし、僕は少し違うことを考えていた。 これが教師の指導の成果だったとして、一体教師はどういうつもりでこんな指導をしたのだろうか。普通に考えると、子供達の教育上必要だったからである。公共の場所での態度を培うということであろう。しかし、本当にそれだけなのか。教師達は、自分達(または「学校」)が恥をかきたくなかったから子供達を「仕込んだ」という側面はなかったのだろうか。それは、自分達の日頃の指導の成果を見せたいがために、運動会(または体育祭)の入場行進や整列の練習を何度もやらせるのと根本において通底しているように思えてならない。それはもはや教育ではなく、観客の前で芸をさせるために動物を仕込む「調教」に等しい。いうまでもないことだが、この場合仕込まれる側の意志や都合は全く考慮されていない。そう考えるとこの子供達は不憫である。自分自身のことを思い出してみると、遠足は勿論目的地も楽しいのだが、行き帰りのバスや電車の中も楽しかったものだ。普段席が離れていてなかなかゆっくり話せない友達と話せたり、時間潰しにしりとりをやったり、勉強を離れた先生との会話ができたりと、なかなか貴重で豊穣な時間だったのだ(思いっきりはた迷惑だったかも知れないが)。今、この電車に乗っている子供達は、確実にその時間を奪われて、物理的に「移動」させられているだけなのだ。公共心を教えることも大事とは思っても、やはり割り切れなさが残る。ましてや学校や教師の体面を保つためだとしたら、まだエネルギーを発散する時期の子供達のためにならないような「調教」は、是非ともやめてほしいものだ。 とはいいつつ、席を譲られた僕が「よくしつけられているな」と一瞬思ってしまったこと、静かな車内にほっとしたこともまた事実である。そういう僕達大人の視線(これは社会的規範を内面化したものである)が、教師達を「調教」に駆り立てているのはほぼ間違いない。だとすれば、子供達から豊穣な時間を奪っているのは、本当は僕達学校の外の大人なのだ。そう考えると、子供達から譲られた座席に座っているのが申し訳なくなってきて、僕は会社の最寄り駅まで非常に居心地の悪い思い時間を過ごしたのだった。
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