思考過多の記録
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「事実は存在しない。ただ解釈だけが存在する」とある劇作家が脚本に書いていた。どんな事象にも、表があれば必ず裏がある。文学や音楽、絵画といった芸術には、たったひとつの正しい見方や意味は存在しない。学校の授業では平気で「作者のいいたいこと」を教えたりしているのだが、そんなものは作者自身にだって厳密には分からないのではないか(少なくとも、脚本家の卵である僕はそうだ)。また、作者が考えている解釈(=制作意図)が絶対ということもあり得ない。もし作者の解釈以外の一切の解釈が無効だということになれば、全ての芸術作品は作者のマスターベーションに等しいということになる。そんなものを見せられても面白くも何ともない。社会主義体制の国や宗教団体では、今だに芸術が政治的宣伝や洗脳の手段として使われている。ここでも支配者の定める解釈が唯一絶対であり、それ以外の解釈の可能性は否定される。何とも乱暴な話である。そこでは解釈=事実という図式が大前提になっているのだ。 自分の人生のある出来事(それは、日々の些細なことでも、所謂‘人生の岐路’になるようなことでも同じだが)についても、僕達はついつい自分の解釈が唯一絶対に正しいものであると思い込みがちだ。何しろ判断材料は限られているし、基本的に自分の思考パターンというパースペクティヴしか得ることができないからである。そして、一度形成された「解釈」の枠組みは、「事実」となって僕達を縛る。とりわけ神経症にかかって精神かを訪れる人間は、自分の解釈で自分自身をがんじがらめにしている傾向が強い。自分で作り上げた「事実」の中に閉じ込められ、逃げ場を失って発症するのである(これは、精神科医が書いたある本を読んでの、僕の「解釈」である)。そういう人間に対して、医師は面接を通してその患者が何故そのような「解釈」を行うに至ったかを明らかにしていく。患者が自分の「解釈」の根拠を冷静に見つめることができるようになったとき、その人は自分を縛っていたものから自由になる。そして、症状は消えてゆくのである。この医師は、ある患者の治療の過程で、患者が自分の身に起こった出来事をを解釈した言葉に対して、こんなことを言っている。 「そういうことになるのかもしれません。ただね、人生の物語というのは、話の筋がひとつとは限らないんですよ。」 そして彼は、彼の解釈を患者に話す。結果的にそれが患者を救うことになるのである。 自分の人生は、実際に生きている自分が解釈した姿が正しいというのは、実は錯覚に過ぎないのかも知れない。それを外から見ている人によって、様々な解釈が成り立つ。ある絵柄を完成させるべくパズルを並べていても、他の人の目には全く違った絵柄が浮かび上がって見える場合が多いということだ。どの絵が正しいということはない。先の話でいえば、医師の解釈が患者本人のそれより正しくて、それこそが事実だということではないのである。一面でこれは不安なことだ。だが、だからといって誰かに「事実」を探してもらおうとしてはいけない。解釈の嵐の中を、自分を縛ろうとするものと戦いながら進んでいく。それが生きているということなのだ。 これが、人生というものに対する、僕なりのひとつの「解釈」である。
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