思考過多の記録
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2000年11月02日(木) マイペース

 誰にでも、その人固有のペースというものがある。以前この文章で自分の思考のペース(スピード)について書いたが、概して僕は、何かにつけて一般人よりペースが遅い。小学校に通う子供がいても少しもおかしくない年齢なのに、いまだに独り身を通しているのもそのせいである(と思いたい)。何か事を行おうとする場合にも、計画→準備→実行というプロセスの進行が遅い。他人の目には、しばしば止まって見えるようである。元来が石橋を叩いても渡らない性格なので、まず計画を立てるまでが大変なのである。そんなわけで、外から見ていると非常にじれったく感じるらしい。
 先日、かつて一緒に芝居をやったことのある女性と久し振りに会った。彼女は芝居を離れ、社会人として忙しい毎日を送っていたが、そのあまりの忙しさに体力的にも精神的にも限界を感じてこの夏に退職、フリーターに転じていた。その間も彼女は芝居に対する意欲を失ってはいなかった。僕も何回か声をかけたのだが、仕事に時間をとられてしまったり、彼女の個人的な事情があったりで(その度に声をかけた僕達の側が振り回されたのも事実である)、残念ながら一緒にやるチャンスがなかった。その彼女は、自由になる時間が増えたのをきっかけに、週1回とある演劇ワークショップに通い、実際に芝居を学び始めていた。そんな彼女から見ると、僕の芝居に取り組むペースは、ひどくゆっくりしたものに感じるらしい。確かに、ここ2作の間は1年半空いてしまっている。彼女は、僕が社会人としての日常生活に安住し、芝居への情熱を失ってしまっているのではないかという意味のことを言った。芝居で認められるようになるには、そんなペースでやっていてはとても時間がないというのだ。だから、実行力があって、どんどん物事を進めてくれる人と組むべきだ、とアドバイスまでしてくれた。
 彼女に悪意はない。むしろ、僕の力を認めているからこそ、何とかそれが実を結ぶようにと思って言ってくれているのである。それは重々分かっていても、僕は彼女のこの「忠告」を素直に聞くことができなかった。彼女の話にはいくつかの論点が含まれている。その全てについてここでは言及しない。ただ、ひとつ言いたいのは、物事を実行するプロセスの進行の早い遅いは、その物事に対する情熱の強さと必ずしも相関関係にはないということである。確かに、一般的に言って意欲や情熱が強ければ、強力に、かつ迅速にそれを実行しようとするだろう。だが、拙速という言葉もあるように、早く取りかかれば必ずいい結果が出るとも限らない。じっくり取り組んだ方がいいものが生まれる場合もある。それに、他の誰のためでもない、最終的には自分が楽しみ、また自分を納得させるためにすることであれば、当然それは自分に最も適したペースで進める方がいいに決まっている。問題は、どれだけ充実した活動ができ、いい結果を生み出せたかであり、何をどれだけ実行したかということではない。最初に書いたように、僕は人に比べてペースが遅い方で、なかなか形になる結果を残せていないが、だからといって、例えば芝居に対する情熱が弱いという受け取られ方をするのは全く心外である。周りの状況なども考えると、僕のペースではこれで結構めいっぱいなのだ。無理矢理急げば、やること自体が苦痛になる。それでは全く意味がない。勿論、僕の芝居に対する思いや情熱は、昔から変わっていないつもりである。やる気がないから1年半空いてしまったのではない。きちんと芝居に取り組もうとした結果なのである。急かされたり、機械的にやったりして3つのことを成し遂げるよりも、1つのことを自分のペースで納得のいくようにやりたいのである。たとえ、それが演劇活動を続けるには本来適切ではないやり方だったとしても。
 物事を進めるペースが遅いと、結果として失うものもあるだろう。彼女が言うように、時間は限られている。だが、そのことで見えてくるものもあろう。だから、他人からどう見られようと、自分に固有のペースは大切にしていきたい。それは、その人固有の生き方とも深く関わっている。僕のペースを批判した彼女は、僕の生き方そのものを批判したことになるのだということに、果たして気付いているだろうか。
 もっとも、僕が携わっている演劇というメディアは共同作業が基本であり、自分のペースにこだわりすぎるのも問題である。事実、僕が自分のペースを崩さずに脚本を書くものだから、芝居の製作の進行が遅れて、役者・スタッフ、最後は僕自身までもが頭を抱えることになるのである。


hajime |MAILHomePage

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