思考過多の記録
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僕の恋人が僕に語ったところによれば、彼女が小学生の頃、作文を電話のベルの音で書き始めたところ、担任教師から「作文は『私は』で書き始めなさい」と指導が入ったそうである。緊迫感を表現しようとして、子供ながらにより適切な表現は何かと考えた結果なのに、それが認められなかったのだ。その教師にとっては、作文は必ず「私は」で始まらなければならないという定型(=紋切り型)があり、そこからはずれた作文など存在しないという認識だったのであろう。何でも紋切り型に収めないと気が済まないタイプの人間が、世の中には結構いる。川はさらさら流れなければならないし、夫は仕事で妻は家庭に決まっている、といった具合だ。 紋切り型の代表選手は、時代劇と演歌であろう。ただ、よく見る(聞く)と、現在のドラマもJポップも同じ状況である。ドラマでいえば、登場人物の設定も、事件の顛末も、そして結末も、全てある種のパターンの中に収まる。毎回毎回、またどの番組もいくつかのパターンのうちのどれかを踏んで展開している。出演者も、同じような顔触れが同じようなキャラクターを演じている。登場人物の造形も、見事なまでにステレオタイプだ。「ドジでお茶目な新人看護婦が、いろいろな失敗を繰り返して周りを混乱に巻き込みながらも、同僚や先輩、そして患者さんからの支えや励ましを受け、若い研修医との恋を経験しながら成長していく」という「お約束」のストーリーは、主人公の職業を変えればいくらでも応用が利いてしまう、恥ずかしいまでの紋切り型だ。このような現象は、ニュース番組やワイドショーにも見られる。不倫騒動の芸能人にレポーターがする質問はいつも同じだし、凶悪犯罪を伝えるレポーターは、事件の内容に関わらず全く同じように沈痛な面もちで、同じようなコメントをする。これがニュース番組になると、ワイドショーとは違った文法に則って、ニュース番組独特の紋切り型にはまった表現やコメントをしている。いじめによる自殺が起これば学校はいつも悪者だし、サッカーの国際試合が行われれば日本中が熱気に包まれ、国民全体で応援しているかのようであり、皇族の誰かが亡くなれば、日本中が悲しみに包まれるというわけである。それがどのチャンネルでも繰り返される。 この他、映画や演劇、小説、ゲーム等々、ありとあらゆるメディアで紋切り型=ステレオタイプ=お約束は、日々再生産されている。僕達はその洪水の中で生きているわけだが、実はこれは僕達が無意識のうちに望んでいることなのだ。紋切り型は僕達を安心させる。言い換えれば、余計なことを考えなくてもよい状態にしてくれる。全てが僕達の理解可能な範囲で起こってくれるので、僕達はその範囲内で反応すればよいことになる。冒頭の例でいえば、400字詰めの原稿用紙を渡されたら、内容に関わらず最初に「私は」と書いてしまえばよい。これは明らかに思考停止の状態である。そこには何の刺激もなければ、発展性もない。どんな冒険も恋物語も、展開も結末も全て予定調和の範囲内だ。しかし、それが本当の冒険や恋といえるだろうか。 紋切り型からはずれる物事は、僕達を不安にさせる。だから僕達は、無意識にそれを嫌悪する。王道をはずした物語を多くの人間は「つまらない」「分からない」といって退ける。それはおそらく、僕達の生きる日常が本当は紋切り型には収まらず、僕達にはそれが耐え難い苦痛だからであろう。せめて日常から離れたところでは、紋切り型の世界の中で、思考停止状態で楽をしたいと思うのは自然だ。だが、この状態を続けていると、人は現実もまた紋切り型で形成されていると思い込んでしまう危険性がある。日常生活の中でも、無意識のうちに思考停止に陥ってしまうのだ。だが、そうと分かっていても、紋切り型が与えてくれる平和の誘惑から逃れることは難しい。だからこそ、紋切り型をはずしたり壊したりすることは、非常に勇気がいる。僕は紋切り型に裂け目を入れるような作品を作っていきたいし、自分を紋切り型に縛り付けようとするものに対しては、あくまでも抵抗する意思の力を持ちたい。同時に、思考停止に逃げ込んで楽をしようとする誘惑を振り払える勇気を持ちたいと思っている。 このような切り口で紋切り型を批判するという素振りも、実はひとつの紋切り型である。紋切り型を排除するというのは、本当に難しいものだ。と嘆いてみせるのも、ひとつの「お約束」かも知れない…(以下、繰り返し)
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