思考過多の記録
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2000年11月14日(火) 組織と個人について

 この社会に生きている人間は、大抵の場合、公的・私的の別はあっても何らかの組織に所属している。そうでなければ生きにくいからである。組織は個人の力ではできないことを実現させてくれる。基本的には、いかなる組織もそこに所属する個人(=構成員)がある目的を実現するために存在している。ただし、10人の構成員がいれば、実現しようとしていることは個々人で微妙に異なっているものだ。したがって、組織はあくまでもその最大公約数的なものの実現を目指すし、またそれ以上は不可能である。そして、構成員が組織によって所期の目的を達成した場合、または組織が構成員の目的を達成できなくなった場合、当然その組織は解体されなければならない。何故ならば、その組織の役割は終わったからである。ところが、多くの場合、ひとたび組織ができると、人は何故かその組織を存続させようと必死になる。まるで組織の維持が本来の目的であったかのように、構成員個人の意思や目的の実現はしばしば犠牲になる。これに反発する構成員は組織によって処分され、組織の外に放逐される。場合によっては命すら狙われることになるのだ。
 僕達はしばしば「組織の論理」という言葉を耳にする。ある事態に直面したとき、個人としての人間の反応やとるべき対処法と、組織のそれとは違っている。それは組織というものが個人の集合体であることからくるのであり、また構成員全体の最大公約数的な目的の実現という組織自体の持つ性格にも由来している。その時、組織に属している個人は、一体どちらを重んじればよいのかという問題が出てくる。「我が社としては…」とか、「○○というのが国の方針である」などと人は平気で口にするが、「会社」や「国」にはその人も属しているのであり、その人が「会社」や「国」を代表して言ったことは、自然と「個人」としてのその人本人にも影響を及ぼす。しかも多くの場合、それはその人が個人的に(あるいは直接的に)決めたわけではなく、「組織として」決めたことである。たとえ個人的には間違っていると思っていても、あくまで組織が決めたことならば、その人はその方針に従って行動しなければならない。戦場にいる兵士は、反戦を唱えることはできない。もし罪悪感や違和感を消したいと思うなら、方法はただ一つ。組織と一体化することである。組織の論理を自分自身の思想だと思い込めばよい。戦場で敵を殺すのも、平和をもたらすための行為であり、自分はその目的を遂行しているに過ぎないというわけだ。これが所謂「魂を売る」ということである。こうして個人の存在を消してしまった者達が集まって、組織としての決定が下されることになる。そして、魂を売っていない者への迫害が始まる。
 組織がある程度の期間存在し、たとえ内実はそうではない場合でも外側からは盤石の体制に見えるようになると、まるで組織自体がひとつの有機体であるかのように振る舞う。「組織の生き残りを賭けて」という言葉があるとおり、組織の存続のためにあらゆる手段がとられるようになる。外側の人間から見れば異常なことも、そこに属する人間にとっては通常のことだ。何故なら、組織は固有の目的遂行のために固有の論理に基づいて動き、なおかつ存在し続けなければならないからである。それが組織の「意思」である。その「意思」の実態は組織を運営している中心人物達の意思である。そしてそれは、構成員全体の最大公約数的な意思でもある。しばしば僕達は「みんなが決めたことだ」という。その場合の「みんな」は何処にも存在しない。そうであるが故に、それは全構成員を縛る。たとえ指導者でも、そこから自由になることはできない。独裁者の代名詞であるヒトラーでさえ、おそらくナチス=ドイツという大きな組織の意思に動かされていたのであろう(そのことによって、彼が責任を免れるとは思えないが)。余程自覚的でない限り、誰もが多かれ少なかれ実態のない「みんな」の集合体に魂を売り渡して生きることになる。そうしないと、この社会では生きにくい
 しかし、冷静に考えてみると、永遠に続く組織などあり得ない。大企業も、政党も、国さえも、あっという間に崩壊する様を僕達は目の当たりにしてきた。もっと恐ろしいことに、たとえ自分が所属していた組織が消え去ったとしても、一度売り渡した魂は二度と戻ってはこないのである。組織への忠誠を誓う前に、個人の立場に立ち戻ってそのことを考えてみることが、案外正しい処世術かも知れない。


hajime |MAILHomePage

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