思考過多の記録
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普通、人が日常の意識に上らせず、話題にするのを避けているようなものにこそ、人間の深層や真実が垣間見える、もしくは顕現するものである。政治(まつりごと)、戦争(いくさ)、性愛(セックス)、この3つがまさにそうだ。そうであるが故に、僕にとって、この3つは非常に興味深い。 政治など政治家(政治屋?)がどこか遠くでやっているもので、自分達の日常と何の関係もないと思っている人も多い。政権政党内部で派閥抗争が起こったりすると、決まって国民は冷ややかな視線を向けるか、全く無視するかのどちらかだ、とメディアは伝える。だが、例えば職場や学校で、多くの人は所謂「グループ」を作ってはいないだろうか。そして、他のグループに属する人との間で、諍いや衝突、嫌がらせ、足の引っ張り合いの応酬といった‘抗争’を繰り広げてはいないだろうか。グループ間だけではない。同じグループに属する人間通しや、友人、恋人との間で、日常のあらゆる場面で様々な駆け引きが行われているのではないだろうか。時にはこちらが大きく譲歩することもあるだろうが、次の機会にはそれを理由に相手に譲らせたり、譲歩したと見せかけて、実はよりよい条件を相手から引き出したり、相手の弱みにつけ込んでこちらの要求を丸飲みさせたりといったことである。それこそがまさしく「政治」である。その意味では、僕達の誰もがある種の政治的存在であるといえよう。 一方、戦争というと、必ず「非人間的」とか「人道に反する」という形容詞がつく。僕達は、戦争がそういうものであると教えられてきたので、戦争に関する嫌悪感を持っている。その上、ここは日本だ。政治にもまして戦争は遠い存在のように感じられる。僕達の感覚では、普通、人間は戦争をしない。だが、これもおそらく事実に反するだろう。それは、毎日のようにニュースや新聞を通して世界の様々な国や地域での戦争が伝えられることからも明らかだ。「平和ボケ」と言われる我々の国でさえ、つい半世紀と少し前までは世界の大国を相手に戦争をしていたのである。一体何故なのか。うんと単純化していってしまえば、おそらくそれは、戦争こそがまさしく「人間的な」行為だからではないだろうか。勿論、領土や資源を巡る縄張り争いや闘争本能といった、人間の動物的な部分の現れであるという面もあろう。だが、よくいわれることだが、同じ種同士がこれ程まで殺し合う(それも、かなり残酷な手段で)というのは、地球上のあらゆる種の中でも人間だけである。ということは、戦争は人間が持っている動物としての本能というより、人間固有の「本能」であると言えないだろうか。そうでなければ、有史以来世界中から戦争が消えた時代のないことの説明がつかない。まさに人間は、戦争とともにあったのである。 そして、性愛である(恋愛ではない)。言わずもがなのことであるが、これは食べること、眠ることと同じように、動物としての人間が個体を維持し、かつ子孫を残して種そのものを存続させるために必要不可欠である。ただ、人間の場合は他の動物と異なり特定の発情期を持たない。とりもなおさずそれは、性愛と繁殖を切り離すことが可能であることを意味する。このことが、人間に特有の性愛の問題を生み(所謂「文化」という奴である)、そこからあまたの文学作品や音楽や絵画、果ては犯罪に至るまで様々なものが生み出されたというわけである。性愛はそれ程までに人間存在の深い部分と関わっている。取り澄ました令嬢もベッドの上では乱れ、超大国の大統領は執務室でスタッフの女性と不適切な関係を結ぶ。社会的な身分や立場といった仮面が、いとも簡単に引き剥がされていく世界。そこには地獄へ引きずり込まれそうな重力と暗闇が支配する深淵と、天国へ通じるかと思われる生命力に満ち溢れた光に包まれる喜び(悦び)の階段の2つが、同時に僕達の前に立ち現れる。思春期に初めての性衝動に襲われてから、おそらく生涯僕達はこの得体の知れない世界に魅惑され、同時に苦悩させられ続ける運命を背負った存在なのである。 最初にも書いたが、この3つについて僕達は普段考えたり、見たり聞いたり話したりするのを意識的に避けている。それは僕達から隠されていることが多いし、公の場で語られる場合は、大抵否定的なニュアンスである。それは、人間の存在を大きく規定し、同時に本性としてさらけ出されてはよろしくない部分である。誰でも恥ずかしい部分や見たくない部分は隠したいし、できればないことにしたいとすら思うだろう。だが、それは根本的な解決にはならない。何故なら、僕達は人間であることをやめられないからである。 これら3つの全てをそのまま肯定しようとは思わない。だが、僕は道徳の言葉でこれらを戒めるのではなく、文学の言葉でこれらを語りたいと思っている。そういう僕もまた、一人の人間である。
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