思考過多の記録
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2000年11月19日(日) 「この自分」について

 オーストリアの観光地でのケーブルカー火災に巻き込まれて(おそらく)亡くなった女子中学生が、事故の数日前に現地から出した絵葉書が、事故から数日後に家族や友人の元に届いたとメディアが報じていた。僕は新聞に載ったその葉書を見たが、こんな事故さえ起こらなければ特別な意味など持つ筈もない、どこにでもありそうな文面の葉書だった。だが、その肉筆の生々しさや、これから起きることを知らないが故の明るい内容等が、これが他のどこにもない、世界で唯一つの葉書であることを物語っていた。あの事故という「出来事」によって、この女子中学生の葉書は「単独性」を獲得したのである。それは彼女の存在それ自体の単独性を僕達に思い出させてくれる。
 例えば異性にふられた人間に対して「男(女)は他にもいるじゃないか」という慰めの常套句がある。確かにその通りである。勿論、ふられた当人にとっては、相手の人は自分にとって取り替えのきかないたった一人の大切な人であろう。そうは思っていても、大抵の場合、時間がたてば全く別の人間を好きになっていたりするものだ。しかし、不慮の事故等で子供を失った母(父)親に対して「子供は他にもいるじゃないか」とは絶対に言えない。たとえその子供に兄弟がいたとしても、その子供の後に別の子供が産まれたとしても、失われたのは「その子供」の命なのである。それは代替不能で、失われれば二度と戻らない。単独性とはそういうことである。そして、別に突発的な事故や戦争や病気等で命を失わなくても、本来僕達は一人一人がこの単独性を持った存在なのである。ただ、日常の中ではそのことの実感が持ちにくいだけだ。
 職場や学校にいる時、多くの人は自分が取り替え可能な存在のように思えるものだ。いなくなった人間のポストは、程なく別の人間によって穴埋めされるし、生徒一人が教室から消えても、学級運営に何ら支障はない。たとえ自分がやらなくても、自分が担当する仕事を代わりにやる人を会社は難なく見つけるだろうし、自分が授業を受けなくても、また入試を受けなくても、その代わりの人間はごまんといる筈だ。自分は全体の中の一人であり、「他の誰かであっても構わない」(=「個別性」を持った)存在である。社会はこうした人間の集合体のように見える。ある役割を担う人間を任意に選び出せるシステムがあり、その人間を別の人間に置き換えるシステムもまた存在している。こうして、人間が一人いなくなっても、社会は何事もなかったかのように動いていく。この事実を日々感じ取っている僕達は、いつしか「自分」という存在を消して全体の中の「個」であることを選んでしまう。
 けれども、僕達は本当は「他の誰でもない、この自分」なのである。たとえ他の誰かと代替可能であっても、「この自分」の存在は唯一無二であり、単独なものである。女子中学生は日本全国に数多くいるけれど、事故で亡くなったあの女子中学生と取り替えがきく筈もない。彼女は、これまで歩んできた短すぎる人生の結果あの場所にいたのであり、あの葉書を書いたのである。こうした事故の「単独性」によってしか、自分の「単独性」を表現したり実感したりできないというのは、確かに悲しいことである。いつしかあの事故の「単独性」は失われ、彼女もまた、あまたある大事故の犠牲者達の一人という「個別性」を持った存在として扱われ、やがて僕達の記憶から消えていくのかも知れない。それでもなお、あの絵葉書を書いた彼女の「単独性」は失われない筈である。そしてそのことは、僕達一人一人が本当はかえがえのない「この自分」なのだということを忘却してはならないと、僕達に教えてくれているのである。


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