思考過多の記録
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ものは言い様で角が立つ。自分の意見を述べるときには、できるだけ角が立たないように言葉を選ぶのが一般的である。しかし、僕の場合は逆である(勿論、場所とシチュエーションはわきまえるが)。できるだけ問題が表面化しそうな少しどぎついくらいの言葉を、意識的に選ぶようにするのだ。当然、言われた相手や端で聞いている人はカチンときたり、ドキッとしたりするだろう。僕の言葉で傷つく人もいるだろうし、「実態も分からないくせに何言ってやがる」と思う人も確実にいるだろう。だが、問題がそこに存在することは事実なのにもかかわらず、それには触れずにやり過ごしたり、問題をオブラートでくるんで表現することで、当たり障りなくまとめてしまうという態度が、何か不誠実なように思われて、どうしても僕には違和感があるのだ。 人はなかなか物事の核心を突きたがらない。それを口にすれば、自分や他人を著しく傷付けることになったり、相手との対立が決定的になってしまうことを恐れるからである。また、そこから多くの問題が派生して出てくるので、面倒なことと向き合わなければならなくなるという場合もある。「それを言い出すと、後が大変だから…」というわけである。そこで、できるだけ角を立てないように話すのが「大人」だということになる。だが、そうやって放置され続けても、問題は解決しない。よく「時間が解決する」というが、それは単に、時間の経過に伴って問題が曖昧になったり、人々の記憶が薄れていくにしたがって、問題そのものが風化して消えてしまったように見えるだけだ。あるいは、状況が変わって問題が問題でなくなってしまったりしたにすぎない。問題が解決されていない以上、それは何かのきっかけで、再び問題として浮上してくることになる。そして、そうなるまで、その問題があることによって生じる矛盾や諸々の不都合等もそのまま存在し続けることになる。場を取り繕うための一時凌ぎ的な解決や、対立を和らげるための穏便な物言いが、長い目で見ればかえって事態を悪化させることになるのだ。所謂「なあなあ」の関係で済まそうとすれば、むしろ傷口は深くなっていく結果になるのだ。また、腹の中ではみんな「どこかおかしい」と考えていても、それを口に出して言わなければ、結局は何も変わらないままである。表面上は何事も起きていなくても、それでいい筈がない。 だとすれば、いずれかの時点で体面や人間関係、力関係にとらわれず、敢えて問題点を明らかにする言葉遣いや行動が不可避である。たとえそれがなあなあの関係でうやむやにされたり、力関係で握りつぶされたり、理屈でうまく丸め込まれたとしても、そこに問題が存在していた(そしてし続けている)という認識を、多くの人が持つことができる。そのことが大切である。もし理不尽にも問題がそれ以降も放置され続けたとしても、今度はその事実を多くの人が知っているのだ。そして、そのことが、問題解決への糸口を当事者達に探らせることにつながっていく(ことが多い)。また、すぐには解決できなくても、問題の存在が浮かび上がれば、みんなでそれを考えていこうという契機を作り出すことはできる。変えなければと思っていた人達も、それを突破口として声を上げ、動き出せるかも知れない。要は、その口火を誰が切るかということである。その最初の言葉は、どうしても角を立てる言い方にならざるを得ない。そうでなければ、物事は本当には変わっていかないのである。 少しどぎつい言葉遣いをする僕を快く思っていない人は、おそらく僕の周りに少なからずいる。この日記も、読む人が反感を覚えるかも知れないような書き方をしている。しかし、自分の言いたいことを言った結果、角が立ったり嫌われたりするのはやむを得ない。むしろ、自分の本当に言いたいことや考えていることを隠して人に好かれるよりも、ずっと気が楽である。それだけの人眼関係なら、初めからない方がましだと思ってしまうからだ。それでぼくは、つい無意識のうちにどぎつい言葉を選んでしまう。 「北風と太陽」という話があるが、問題はコートを脱がせることではない。コートを着ずにはいられない寒さという現実がそこにあること、そのことを認識することこそが重要なのである。
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