思考過多の記録
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かつて僕の後輩で「夢は叶っちゃったら面白くない」と言った人がいた。彼女の認識の中では、手を伸ばしても決して届かないこと(もの)が夢であり、そこに価値を見出していたのであろう。そういえば、歌の中でも「夢を捨てないで」とか「夢見る力をください」とか「きっと夢は叶う」とか、やたらに夢が連呼されている気がするが、実際に夢が叶った歌というのにはあまりお目にかからない。勿論、そういう歌もあるのかも知れないが、少なくともメジャーにはなっていない。有線でヒットしたり、シングルで発売されたりする歌は、大抵が夢を見ている(あるいは夢を持とうと呼びかけている)段階である。この理由は誰にでも分かるとおり、世の中の圧倒的多数の人間は、夢を叶えていない(もしくは持てていない)という事実があるからである。そうであればこそ、人は実際に夢を叶えて一線で活躍するアーティストや役者等に憧れ、彼等の信奉者となり、自分の中の「神様」が発信するものに群がる。そして、そこから少しでもパワーをもらおうとするのである。 実際問題、今の世の中で夢を持ち続けたり、叶えたりすることは非常に困難である。かつては、いい学校からいい会社に入り、幸せな結婚をして家庭を持ち、マイホームを持てばそれでひとつの夢が完成したことになっていた。しかし、現在ではそれが叶えるべき夢でも何でもないことは、誰の目にも明らかだ。うまくして芸能界に潜り込んだとしても、数年後には捨てられることも目に見えている。共通の「夢」のモデルはなくなり、各人各様のささやかな夢を追いかけるか、現実に適応しきって今現在を楽しみながら(またはうまく振る舞いながら)生きていくかのどちらかになっているのが現状であろう。本当に夢を叶えたいと思えば、自分の才能から経済的なことまで障害はいくらでもある。それを次から次へと乗り越えていくには、相当な力と運が必要だ。多くの人間がスタート地点で挫折することになろう。こうして、夢は手を伸ばしても決して届かない存在になる。そうなると逆に、何を「夢」として持っていてもいいことななる。決して実現しないのならば、空想して楽しもうというわけだ。 僕が小学校の頃、男子の夢は大抵プロ野球の選手になることであった。勿論、実際にそうなれるのはほんの一握りである。しかし、小学生にそんなことは分からない。クラスで野球が少しでもうまければ、もうプロへの道が開かれたような気になって、毎日家で素振りをしたりする。夢を空想の世界にとどめるというのは、基本的にこれと同じだ。違うのは、夢の実現を諦めているかどうかということである。 僕は脚本家の卵として、人を集めて自分の脚本を上演してもらったりしている。今はごく周辺の人だけを相手にしているが、いつかは多くのお客さんに見てもらいたいと思っている。そして、それを空想の世界で終わらせる気は、毛頭ない。仕事をしながら芝居を続ける僕に対して、今では仕事をしながら子育てをしている別の後輩が「私の周りで夢を追っているのは先輩だけ」と言っていた。だが、僕は自分で夢を追っているとは思っていない。もしそうなら、僕はとっくに会社を辞めている。会社に縛られる身でありながら如何に芝居に時間を割くか、また如何にスケジュールを調整して人材を集めるかといった現実と渡り合いながらやっているのである。そう、まさにこれは僕にとって、切実な「現実」なのである。しかし、例えばそういう局面の中で、あの劇団のこの役者さんに出てほしいと思えば、その願いを叶えるべく僕は動く。そして、実際に舞台に立ってもらう。この時、僕自身のささやかな「夢」は叶ったことになる。そして僕は、次に実現したい願いは何か、そのためには何が必要かと考えるのである。その積み重ねだけが、大きな「夢」を空想から現実に変えていくための唯一の道だと思う。 願っていれば夢は叶うものではない。願いが強ければ、自然に人は戦略を立てる。そして、現実の中でそれをひとつずつ実現していく。そうやって現実として生きられてこその「夢」である。実際は思っていたのと違っていたということもあるかも知れないが、何はともあれ「手を伸ばして」それを手にしたということが重要である。そこから新たに見えてくることもあろう。その意味で、「夢」が完全に叶うことはない。勿論それは悲しむべきことではない。誰もが、夢の途中である。
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