思考過多の記録
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この数週間(特にこの前の月曜日)に日本の政治に起きたことについて、色々な所で色々な人が語っている。政治についてこの国の人々がこんなに熱く語ったことは、最近ではあまり記憶がない。それ程現在の政治は閉塞状況にある。この国の多くの人々が、この状況から抜け出す突破口を求めていたのだということがよく分かる。そして、結果はご承知の通りである。この国の多くの人々が、この結果に落胆している。が、僕にとっては予想通りだった。勿論、これでいいとは全く思わない。ただ、現状があからさまになったという意味では、いい結末だったと思う。今回の一連の騒動で白日の下に曝されたのは、旧態依然たる政治家(政治屋)達の醜態であった。 そもそも、政治は理念だけでは動かない。様々な力学や複雑な法則性等によって動いていくものだ。それを百も承知で言うが、今はそういう政治のゲームをやっているときではない。この国の悲惨な現状と不透明な将来のことを考えれば、具体的な政策やビジョンを策定し、国民に示す義務が政治家にはある。それを元に国民も含めて広く議論をしながら、政策を実行していくことを、早急にやらなければならない。一時は政権政党の主流派に反旗を翻したあの政治家も言っていたように、まさにこの国は沈みゆくタイタニックなのだ。それを考えれば、今この国のリーダー(総理大臣)でいるということがどれ程の重責なのか、また政権与党というのがまさにこの国の命運を握る立場からどれ程の緊張感を持っていなければならないのか、今更いうまでもないだろう。ところが、当の本人達だけが、どうもそのことを理解していないようなのだ。でなければ、あんな態度や言動がとれる筈がない。この国の現状を鑑みれば、現在の自分達のやっていることは非常に恥ずかしいことだと彼等が認識しているとは、残念ながら全く思えない。ただただ、政治的ゲームの勝敗と、この騒動の後始末を如何に自分達の勢力(派閥)に有利に進めるかということにしか関心がないように見える。 これまであの政権政党は、自分達の中だけに通じる言葉を使って、自分達のムラの中だけで通用するやり方(永田町の論理)で事を進めてきた。この国の有権者達はおしなべて政治に対する関心が低かったので、それで咎められるということはなかったのである(マスコミや一部の良識ある人達が批判したり警鐘を鳴らしたりしていたが、大きな力にはならなかった)。 経済がそれなりにうまくいっていたので、都市生活者からも文句はでなかったし、国の財政から地方(自分達の地元)へ金をばらまけば、次の選挙での当選は約束された。歴代の首相にしても、表向きは「国民のみなさんの声に耳を傾け…」などと言いながら、その実はムラの実力者の顔色を窺っていただけのことだ。実力者の意向に添って政策を作り、外部の反対を押し切ってでも実行していくことが、この国のリーダーの役目だった。「実力者」と「地元」だけ見ていれば、あの政党は政権の座に着いていられたのである。こんな状況では、政権運営に緊張感など生まれる筈はない。 時代が移り、状況が大きく変化して、政治を見るこの国の人々の目も厳しさを増している。それだけではなく、「組織」の締め付けを越えて様々な形で政治に参加しようとする草の根の動きも活発になってきた。その力で具体的に地方政治に変化がもたらされた事例も出始めている。あの村にいる政治屋達だけがその変化の重要性に気付かず、この期に及んで自分達の内側に向かって語り、自分達の論理に基づいて変化の芽をつみ取り、あまつさえその変化(具体的には首相の交代)を自分達の論理の中で行おうとしている。そういう行動・言動のひとつひとつが、国民の目にどう映っているのかについての配慮は、微塵も感じられない。選挙に勝てるかどうかと国民の信頼を得られているかどうかは、イコールではないのだ。政治屋達はその辺は分かっているらしく、数にものをいわせて自分達に有利なように選挙のルールを変えてしまった。繰り返しになるが、そういうことをすると自分達の狡さがさらに強調されるということに対しては、驚く程鈍感である。こうした事例は、今回の騒動だけをとってみても枚挙に暇がない。 僕達は彼等の醜態を嫌という程見せつけられた。しかし、沈みゆく船の上でしらけている暇はない。僕達がやるべきことは、国民に向かって語る言葉を持った政治家を選び、育てることではないか。政治のゲームにしか興味のない政治屋には、自らの体質を変えようとする気も、その力もないことがはっきりした。彼等に期待することは、もはや何もない。
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