思考過多の記録
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最初に断っておくが、これは「結婚」一般についてではなく、あくまでも「キムタクの結婚」について考察した文章である。先週末、日本を駆けめぐった彼の結婚話は、明らかに僕達一般人のそれとは性質が異なる。同じ「結婚」、それも「できちゃった結婚」というどこか生々しい事象でありながら、あの2人と一般人のそれとの違いはどこから生じるのか。それは、普通恋愛や結婚がきわめて「私的」(プライベート)な領域に属するものでありながら、あの「結婚」の場合は非常にパブリックなものとして扱われ、実際世の中の多くの人々に何らかのアクションをとらせたということである。 確かに、「結婚」というのは、これまで全く別々に生きてきた2人が、一緒に力を合わせて新たな生活築いていくということであり、それを始めるにあたっては、ある種の「お披露目」が必要である。2人の周囲の人間してみても、それならば2人の新たなる人生の門出を祝う場を設けたいと思うのも自然である。その意味では、「結婚」というものはある種の社会的な行為である。だが、それはせいぜい2人が関わっている様々な集団(親類縁者、友人、職場、学校の関係者等)の範囲内であり、全くの赤の他人に対して2人の結婚を告知する必要は全くない。ましてや見も知らない他人に2人の結婚について論評する資格はないし、そういう筋合いのものでもない。 ところが、キムタクの結婚の場合、まず彼は、一部のメディアに婚約者の妊娠がすっぱ抜かれるや、自分の結婚の報告を、彼自身は直接会ったこともない多くのファン(のみならず、広く「世間一般」)に対して、やはりメディアを通して彼の肉声で語らなければならなかった。そうしなければ許されないという暗黙の了解が、「世間一般」とファンとメディア、それに彼自身の間に成立していたようである。そして、それが報じられるや、メディアや彼のファン(のみならず、「世間一般」の人々の多く)が彼の結婚に関して様々な論評を加え始めたのである。その多くは、根も葉もない情報に基づくものか、悪意(または善意)に満ちた勘ぐり・誹謗中傷の類である。これは、一般人でいえば隣近所や別の部署の人間による「噂話」に相当するが、彼等の場合は、その範囲・影響力において一般人のケースの比較にならない。決定的な違いは、そういった「世間一般」において語られる様々な「噂話」の類をメディアは拾い上げ、誇張・曲解などを行って再び「世間」に広めているということである。当然それらは、当事者である彼等2人の耳にも入る筈である。幾重にも広がっていくこうしたリアクションを、一体彼等はどんな思いで見つめているのだろうか。 彼のような存在には、「私的」領域などないかのように見える。新曲の中のあるフレーズを歌っている時どうにかなりそうだったという彼のコメントは、それが素直な気持ちだったかどうかは別にして、恰も新曲の「中押し」を狙ったかのようであるし、事実CDの売り上げは伸びたそうだ。彼の婚約者にしても、彼との結婚を芸能界での生き残りに使おうという意図がなかったと、誰も断言できない。芸術家は自分の作品を売るが、その人個人を売るわけではない。が、この国では、芸能人の多くは「結婚」「離婚」「生い立ち」といった本来は非常に「私的」な領域に属することを語り、実践し、そのこと自体を売っている。換言すれば、彼等は自分の「人生」を売っている。おまけに、それを見も知らない多くの誰かに、常に論評されるのである。これは身を削るということであり、本来は非常に辛いことである。だが、そうしなければ、彼等は生きていけないのだ。故に、幸せも不幸せも、常に見も知らない他人に見せるために設えられ、演じられることになる。彼等の中では、婚約者を愛するという気持ちですら、他人の視線を意識して形成されることになる。そしてそれは、紛れもなく人間性の否定である。 キムタクの中では、自分自身が彼女を愛しているのか、彼女を愛していることを「見せる」必要があって気持ちを作ったのか、区別できなくなっているのかも知れない。そうだとすれば、そしてそうかも知れないと勘ぐる人間がいるということは、彼にとっては不幸である。僕は彼に一人の人間として幸せになってもらいたい。おそらく彼もそれを望んでいる。が、それは非常に困難であろう。 あの2人の子供は、誰のための人生を生きることになるのだろうか。
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