思考過多の記録
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2000年12月02日(土) |
見せたくないものは存在しないか? |
「バトル・ロワイヤル」という映画について、国会議員達がクレームをつけたそうである。原作は昨年出版されて話題になった小説だが、1クラスの中学生同士が殺し合うという衝撃的な内容で、当然残虐な描写が多い。これを映画化すると、必然的にそういうシーンが多くなる。これは青少年に与える影響が大きいということで問題視されたのだ。映画は間もなく公開されるが、それに先だって、クレームをつけた国会議員達に対する試写会と監督との懇談会が先日行われた。映画を見た国会議員の多くは、「青少年がこれを見て凶悪犯罪を起こす可能性がある」「未成年は見られないように何らかの規制をするべきではないか」といった感想を語ったそうだ。若手代議士の中には「是非見せるべきだ」という意見を述べた人もいたようだが、大勢はこの映画に対して否定的であったとのことである。 僕は原作の小説を昨年読んだ。ことさら賞賛するつもりは毛頭ないが、一気に読ませる力作だなとは思った。登場人物がかなり類型的であることや、事件の経過を追って書かれているため、ひとつひとつのエピソードに深みがなく、全体的に書き込みが浅くなっているところなど食い足りなさは残るが、エンターテインメントとしてはよくできていると思った。だが、何といってもその設定が設定なだけに、きっと問題視されるだろうなとは感じていた。事実この小説は、ある賞にノミネートされながら、最終審査の段階で審査員の多くから問題視され、結局受賞できなかったという経緯がある。それにしても、(特にこの国の)人々は何故こうまでこの種の芸術作品を敵視するのだろうか。暴力やセックスの描写があると執拗な拒絶反応を示す様は、見ていて滑稽ですらある。 凶悪犯罪が発生し、犯人が逮捕されると、メディアや識者といわれる人々は決まって映画やビデオ、小説等を持ち出し、事件との因果関係を言い立てる。まるでそれらが真犯人であるとでもいうかのように。しかし、例えばホラー映画を見た人間が猟奇殺人に走り、レイプシーンのあるビデオを見た人間が性的犯罪を犯すなどという短絡的な図式は、本当に成立しているのだろうか。統計的にも、何らかの因果関係が認められるとする結果と、殆ど関係はないとする結果とがあって、完全に立証されてはいない。人間の思考と行動は複雑で、そんな単純な図式で全てが説明されるはずもないことは、少し考えれば分かる。だが、単純なことは理解しやすく、多くの人々に受け入れられやすい。悪者を特定し、全てをそいつのせいにしておけば、それさえ封じ込めてしまえば問題は解決するのだから安心である。そこから、暴力的、残虐なシーンや過激な性的描写がある作品を規制し、特に精神的に未発達とされる未成年の目に触れないようにしようという動きが出てくるのだ。 しかし、未成年にとって悪影響を与えるものか否かを、一体誰が、どういう基準で決めるというのか。そもそも、そんなことができる資格のある「大人」は、この世の中に存在するのだろうか。あの国会議員達が、自分達こそがその資格ありと考えているとしたら笑止千万である。第一、大人がやってあげなければ、未成年がその芸術作品の価値や意味等を判断し、どう受け取るかを決められないと本気で考えているとすれば、それは未成年(子供)に対する侮辱であり、子供を全く信用していないということになる。「教育上問題だ」とこういう問題に対して決まって大人は口にするが、頭から子供を信用せず、大人の価値観を押しつけるようなやり方こそ、教育上大きな問題があるのではないか。 大人の価値観で「悪い」とされた表現は目に触れさせないようにするという‘純粋培養’的な思考は、政治家のみならず僕達一般市民の中にも根強くあるものだ。だが、たとえ現実にある問題を子供の目から隠しおおせたとしても、それは何の解決にもならない。人類の長い歴史の中で、世界中の大人も子供も、様々な理由から目を覆いたくなるような残虐行為(その最たるものは戦争である)を行ってきたし、また現在も行っている。その事実は消しようがない。だから、そうしたことを伝える表現を、僕達大人は抑圧するべきではない。でないと、そうしたことについて考え、情報を選択する力を子供達は失うことになる。「バトルロワイヤル」という作品を封じ込めるよりも、何故こういう作品が書かれたのかについて考察することの方が、余程教育的に意味があるのではないだろうか。 見せたくないものの存在を隠そうとする大人達の愚かさを、おそらく子供達は知っている。
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