思考過多の記録
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2000年12月09日(土) この世に1人だけ

 僕の大学時代の友人に先日久しぶりに会った。その時彼はこんなことを言った。大学時代、同じサークルの友人にこう言われたそうである。「たとえ人類が全員滅びて、地球上にお前だけ生き残ったとしても、お前はお前のままだろう」。これを読んだ当時の彼は、とても悲しくなったという。たった1人になってしまっても変わらない自分というのは一体何だろう。自分は他の人間とは全く無関係に存在しているようではないか。そう彼は思ったのだ。実は、彼をよく知る(と思っていた)僕も、彼の友人と同意見であった。いや、今でもそうかも知れないと思っている。
 僕が彼と出会った当時も、そして今も、彼は確固とした自分の世界を持っている人という印象が強い。ファッション、好きな音楽や映画、煙草の銘柄やライターのメーカー等々、彼には独自のこだわりがある。彼の文章には独特の文体があるし、何よりも全体から醸し出される雰囲気に、彼らしいとしか形容のしようのない独特の雰囲気があるのだ。勿論彼は、これまで出会ってきた様々な人々や映画、音楽などから影響を受けながら、その世界を形作ってきたのだろう。だが、傍目から見るとその世界は全く揺るぎないものとして確立されていて、ちょっとやそっとでは崩れ去らない強さを持っている。だから彼の友人のような発言が出てきてもおかしくはないと僕には思えた。彼自身、今ではそういう生き方を肯定しているようである。実際、周囲の状況の変化にも関わらず、彼のライフスタイル(生き様)は基本的には学生時代のままである。彼は確固とした自分というものを持っているのであろう。
 別に彼の生き方を否定するわけではないが、人間にはアプリオリに固有の人格があるわけではないと僕は思うのだ。周囲の状況や家族や友人といった様々なファクターに影響を受けながら、人間の人格は形成されていく。だから、その姿は不可避的に、それもしばしば本人の意思を超えて変化していくものなのではないだろうか。その意味で、人間の人格はその人と関わるあらゆる人間(や事象)とその人との関係性の交点に成立しているといえる。自分と周りとを結びつけるこの関係性だけが、自分が何者なのかを規定しているといってもいい。「私」が「私」自身を認識するには、「あなた」の存在が不可欠なのである。そのあり方は実に多様で、「これこそが本当の自分」と言い切れるものはおそらくない。その人が持つことができる関係の多様性が、その人自身の多様性を生み出す。これは、「八方美人」や「世渡り上手」ということとは本質的に異なる。そういう表面上の付き合いは、他者と本当の関係性を結んではおらず、むしろ深層部分でそれを拒絶する行為といえるだろう。いくつもの多様な関係性の中から、それを深層部分で結びつける「自分」という固有の人格が立ち現れてくるのではないか。そしてそれは、周囲との関係性の変化に伴って、当然移ろいゆく宿命を持つ。
 この世にただ1人取り残されるということは、その関係性が消滅するということであり、とりもなおさずそれは自分の存在を規定するものを喪失するということでもある。たとえ肉体が生き残っても、「あなた」がいなくなれば「私」は消える。人間とは、そんな儚い存在なのである。もしそうでないとするなら、人間とはなんと孤独な存在であろうか。そして、その孤独に耐えられないことは、果たしてその人間の弱さを意味するのだろうか。
 確固とした自分を持つ人間に憧れる彼は、ひとつの物語の構想を持っている。幕末の志士・土方歳蔵が現代に蘇る。それでも土方は土方であり続け、彼に惹かれた者達とともに土方は自分の理想を貫こうとするというストーリーだ。この設定で僕が物語を作るとすると、おろらく僕は、土方という人間が現代という時代や新しい人間関係の中で変化していく過程を描こうとするだろう。僕と僕の友人のこの違いが、彼は新婚で僕が未婚という差になって現れているとは考えたくない。


hajime |MAILHomePage

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