思考過多の記録
DiaryINDEXpastwill


2000年12月16日(土) 姿なき殺人者

 どんな理由であれ(または何の理由もない場合であれ)、人の命を奪うことは悪いことだとされている。最近この国ではこの前提も怪しくなっているとはいえ、実際に何らかの方法で人を殺せば、法律的にも社会的にもその人間は罰せられる。場合によっては自分の命をもってその罪を償わなければならない。しかし、人は目に見える殺人者によって命を失うだけではない。実際に手を下さなくても、人は誰かの命を奪うことがある。
 ある出版社で週刊誌のグラビアを担当していた入社2年目の若い編集者が、急性左心機能不全でその命を失った。所謂「過労死」だった。医学的にもそれを裏付ける検死の結果が出ている。にもかかわらず、誰もその責任をとろうとしていない。こういう職業にありがちな話であるが、彼の仕事は多忙だった。1日平均13時間労働が日常化し、休日も仕事がらみのインタビューとその結果のとりまとめ等に追われていた。責任感が人一倍強い人だったそうである。そうまでして仕事に打ち込み、会社のために働いた結果命を落とした彼に対して、会社も彼と同じ職場の人間も、そして彼の死が「過労死」かどうかを判断する行政や司法も、概して冷たいという。所謂「裁量労働制」(仕事をした時間に対してではなく、やった仕事の量に対して賃金を払う制度)をとっていた職場であるから、仕事の案配は自分で工夫できた筈だ。同じ職場で他に死んだ人間はいないではないか。この種の職場は遊びながら仕事をしているようなところがあるから、労働密度が高いとはいえない。入社以来ずっとその仕事の仕方できているのだから、この死が仕事に起因しているとはいえない。これが行政や司法の彼の死に対する見解である。こういう見方は全て、その背景に「死んだのは、お前のやり方が悪かったせい、つまり自分の責任」という考え方が潜んでいる。弱者を守ろうという気は更々ないようである。これだけ働かせていた会社は、勿論知らん顔である。そして同じ職場で働いていた人間達は、この事件に対しては何の反応も示していない。深夜に及ぶ長時間労働も、休日に会社の外で仕事をしていたことも、全てその人が‘自発的に’やっていたことで、この職場では当たり前のこと。それで死んだのは仕事のやり方が悪かっただけであり、結局は自分の責任だ。彼等はそう考えているのだろう。そうでなければ、人1人死んでいるにもかかわらず、彼の所属していた労働組合が「中立の立場」などと涼しい顔をしていられるわけはない。誰も彼の死に対して声を上げていないのだ。何か言って会社とことを構えたくない、という思いも強いようだ。
 確かに彼は病死である。だが、これは殺人だ。彼は「裁量労働制」という制度に殺されたのだ。それだけではない。その制度の下で働いていた職場の人間達も同罪である。彼等は自分達が働きやすいように会社に適正な人員配置を要求する等、労働条件の改善に声を上げなかった(「そんなことをすれば自分が首を切られる」というのは、その職場に労働組合が存在している以上、単なる言い訳にすぎない)。会社はそんな非人間的な仕事の実態を知りながら放置した。「自己責任」で死ぬまででも働いてくれれば好都合というわけだ。そして、行政も司法もこれまでずっとこういう実態を容認するような政策・判断をとり続けてきたのだ。彼等の誰1人として直接手を下してはいない。だが、実際に彼を死に追いやったのは彼等である。こういうことは、彼の事例に限らず、この国の、いや世界の至る所で起こっているのだ。
 直接手を下して人の命を奪う者達は目に見えるので、非難され、法的・社会的に罰せられる。だが僕は、間接的に人を死に至らしめる者達に対して、より強い怒りを覚える。そういう者達を、僕は決して許すことができない。


hajime |MAILHomePage

My追加