思考過多の記録
DiaryINDEXpastwill


2000年12月19日(火) 原理と現実

 原理を大切にすべきか、それとも現実をより重視すべきか。これはあらゆる問題において僕達が直面することである。「現実」と対になるのは普通は「理想」である。だが、理想とは物事の「原理」を実現した状態という意味ではないかと僕は考える。したがって、ここでは「原理主義」について考えたいと思う。どんな原理に乗っ取って社会を作るかというような大問題から、手の届きそうな相手で満足するか、それとも自分の理想の相手が現れるまで待つべきかといった下世話にして切実な問題に至るまで、この2つはことごとく対立している。
 物事の原理を重視し、そこから逆算して現実を構築しようとするのが原理主義である。その立場からすれば、原理に照らして現実が間違っていれば、いかなる手段を用いてもこれを正さなければならない。間違った現実は破壊されなければならないのだ。もし現実が原理から外れているならば、現実が原理に歩み寄らなければならないというのが原理主義の思想の根本である。世界中でテロを繰り返しているイスラム原理主義の考え方はこれだ。しかし、どんな物事も原理の枠組みの中では運ばないのが世の常である。そこからはみ出してしまう部分にこそ、その物事の本質があるともいえるのだ。原理だけに従って物事を進めようとすれば、当然無理が生じ、周囲との軋轢も生まれる。「そうは言っても現実は…」というわけだ。そこで、現実に合わせて臨機応変の対応をとったり、柔軟に考えたりすることが必要になってくる。所謂「現実主義」である。
 しかし、ここで問題なのは、あまりにも原理が軽視されてしまうと、今度は行き当たりばったりの現実の中で、目先の利益や楽をすることだけ考えた選択が繰り返されることになりがちなことだ。現時点での選択と、その一つ前の時点での選択とがお互いに矛盾しているような整合性のない状態を続けていると、長い目で見たときそれは決していい結果を生まない。今の現実から考えて行った施策が後々困った問題を生んで、新たな「現実」として僕達の前に立ち現れるのはよくあることだ。生活を便利にしようと作ったあらゆる製品が、ゴミの山を築いて処分場を埋め尽くしているように。現実を優先することは大切かも知れないが、そのことに対してあまりに無批判・無節操であってもいけない。
 今僕達を取り巻くあらゆる問題が、おそらく「原理」を蔑ろにしたことから生じている。そのツケを僕達は払わなければならない時期にきているのだ。だが、既存の「原理」を振り回せば物事が解決するというものでもない。現実を無視した原理の押し付けは、必ず新たな問題を生む。しかし、もっと困ったことには、実は僕達は、自分が思っている程現実が見えていないのだ。本当の意味で現実と向き合うためには、全く新しい「原理」を作り出さなければならないだろう。折しも新世紀である。新しい「現実」が、僕達のまだ知らないところで生み出されようとしている。


hajime |MAILHomePage

My追加