思考過多の記録
DiaryINDEXpastwill


2000年12月23日(土) 奉仕の義務

 教育改革国民会議という首相の私的諮問機関が、今後の教育の在り方についての最終答申をまとめた。前々から論議になっていた、所謂「奉仕活動の義務化」もしっかり盛り込まれている。これは教育基本法の改正や道徳教育の強化と並んでこの答申の目玉である。小・中・高校の児童・生徒は定められた期間、奉仕活動をしなければならなくなるのだ。18歳以上の青少年にもやらせる方向で考えているという。戦争中の「勤労奉仕」のイメージらしいという説もある。具体的には農業や福祉の現場などでの補助的な作業というのが望ましい内容とされているようだ。それによって今の子供達に欠けている人間性や社会性を育成するのだそうである。
 「奉仕活動の義務化」という何度聞いても違和感の残る言葉に、教育改革国民会議がどんな教育を目指しているのかが端的に表れている。言うまでもないことだが、「奉仕」は「義務」ではないからこそ「奉仕」なのだ。他人の利益や幸せのためにある程度自分を犠牲にして行うというのが奉仕活動の趣旨であり、本来は自発的に行うものである。それを上から命令してやらせるというのは「強制」以外の何ものでもない。これは、‘形(上辺)だけ’の発想である。よくこういう人達が好んで使う「服装(髪型)の乱れは心の乱れ」、すなわち内面の乱れが外面(=形/上辺)に表れるという奴とちょうど逆の関係にある考え方だ。よくいじめ問題が発覚した学校で、生徒と心を通わせるために「校門での挨拶運動」を始めたりするのに似ている。とにかく外側だけ整えて、その鋳型の中に人間をはめ込めば、自然に心(内面)にもその精神が浸透していくということである。そこでは子供本人の意思は全く考慮されない。彼等に言わせればそれは「わがまま」であり、軟弱な精神の表れである(そしてそれは全て「戦後教育」が作り出したというのが彼等の主張だ)。教育とはある種の強制であり、大人が子供にたたき込むものだという考え方が、この提言の根底にある。そうすることに対して及び腰になり、個性尊重と称して大人が子供の言いなりになってきたことが今日の教育の荒廃を招いたと、彼等は声高に主張する。命を大切にし、他人を思いやり、国や伝統文化を尊重する日本人を育てなければならないのだと。
 しかし、大人達から強制されて「奉仕活動」をやらされた子供達が、果たして「他人を思いやる心」など育めるのだろうか。そして彼等は本気でそう考えているのだろうか。もしそうだとするなら、こういうことに否定的な考え方を「理想主義であり、現場を知らない人間の論理だ」と非難する彼等の方こそ、現状認識が甘いと言わざるを得ない。日常の情報量などは大人よりも子供の方が多く持ち、社会の裏側や大人の狡さを知り抜いている今の子供達に、こんな子供騙しにもならない稚拙なやり方が通用する筈などないではないか。子供は、彼等が考えているのとは全く違った意味で、昔の子供ではないのである。もし子供を本気でよく育てようと思ったら、大人は今の何十倍、何百倍も頭を使って考え、議論を重ねなければならないだろう。何よりも教育の主役は子供なのであるから、子供達自身で考え、また子供達と話し合う機会を持つとが大切である。
 「奉仕活動の義務化」という発想の背景にあるのは、とにかく子供に大人の言うことを聞かせたいという、この国の支配層を形成する大人達の強い思いである。そこには、かつて「大人」「国」「社会」が持っていた権威を取り戻したいという大人のエゴが剥き出しの形で表れている。子供自身のために、子供をどう育てるのがいいのかという視点は全くない。逆に言えば、大人はそれだけ追い詰められているのだ。しかし、その原因は大人達が作り出していることは否定できない。もし本当に奉仕活動が義務化されたら、‘形だけ’を追求して本当に自分達のことを分かってはくれない大人達を、子供達は全く違ったやり方で追い詰めていくことになるだろう。


hajime |MAILHomePage

My追加