思考過多の記録
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2003年05月05日(月) 二つの「正気」がすれ違う

 先日書いた僕の微睡みの夢のために、発する言葉で僕を傷付けたあの「彼女」が力を貸してくれることになり、バイト帰りの彼女と夜のファミレスで会った。彼女は僕の出身高校の後輩で、そもそも5年前に僕が演劇活動を再開しようという時に一番最初に声をかけた人だった。当時彼女は社会人だったが、その時は彼女自身の事情があって、僕は別の人間と芝居を打ったのだった。



 その後、彼女は会社を1回変わった後、フリーターになった。それは、再び演劇活動をするためだった。そして実際に一昨年、昨年と彼女はそれぞれ別の劇団の研究生となって芝居の修行をしていた。おそらく、研究生の中では彼女は年長の世代だったに違いない。今年も、彼女は去年までいた劇団の同じ研究所に所属して、もう1年自分の表現を磨くことにしたというのだ。そんな彼女は、一度僕とちゃんと劇作りがしたいと、僕に声をかけてくれていたのだった。



 彼女とアクメのカズミさんとの一番大きな違いは、彼女が所謂人生の節目を既に通り過ぎてきたということだ。彼女は大学の学部を途中で変更したために、カズミさんと同じく普通の人より1年長く大学に通った。けれど、その後彼女は普通に就職する。男性との付き合いもあったが、「結婚」には至らなかった。
 そして、彼女は「仕事」よりも「芸術」の道を選んだ。いや、そう選び直したのだ。それが、彼女にとっての節目だった。



 言ってみれば、彼女はカズミさんと正反対の意味で「正気」に返ったのかも知れない。このまま仕事を続けても、自分のやりたいことはできない。それでは自分の人生に悔いを残す。その判断が、彼女に「普通」の生活を捨てさせた。
 今、彼女は経済的には非常に苦しい状況だ。郊外の安アパートに暮らしながら、バイトを二つ掛け持ちし、研究所と習い事に時間とお金を費やす。休む暇も殆どない、体力的にも経済的にも本当にギリギリの生活である。まだ研究生の彼女には、先行きが約束されているわけでは全くない。それでも、彼女に悲壮感や焦りは見られない。
「いつでもやれるだけのことはやったと思えれば、後悔もないし不安も生まれない。私はそれだけ思って生きています。」
 彼女のメールの中の言葉である。



 カズミさんと彼女とを比べると、カズミさんの方が一見「大人」の考え方かも知れない。しかし、若さ故の焦燥感に後押しされて節目での選択を「させられた」感の強いカズミさんに対して、自らの判断で敢えて困難な選択を「した」彼女の方が、精神的な「成熟」や「強さ」を感じる。ここまで歩んできた人生の「長さ」と「質」の違いだとも言える(勿論、もともとの性格も違うだろうが)。
 そして彼女の生き様は、芸術を志すことが決して微睡むことではないのだと、僕に教えてくれているようである。



 実社会に向かって「正気」に返っていくカズミさんと、「正気」に返るために実社会から芸術の道に向かう彼女。二つの人生が僕の微睡みの前で交錯し、すれ違っていくのを、僕は今目の当たりにしている。


hajime |MAILHomePage

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