思考過多の記録
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2003年05月12日(月) |
海の向こうの戦争その5〜無意味の世界〜 |
アメリカが海の向こうのあの国の首都を制圧してから1ヶ月、そして戦闘終結を宣言してから2週間あまりが過ぎた。確かに一頃程の大規模な戦闘や略奪は起きていない。アメリカ主導の暫定統治機構の発足への準備はちゃくちゃくと進行し、「テレビ映え」しない動きが主になってきたせいか、最近イラク関係の報道の量はめっきり減ってきている。 アメリカのネオコン達は勢いづき、次なるターゲットを探している。世界の国々はいつ自分達に銃口が向くかと戦々恐々とするか、力の差に歯ぎしりしながらも隙あればあの国から主導権を奪ってやろうと狙っているかのどちらかになっている。
けれど、当然のことながらあの国の「戦争」は終わったわけではない。確かにイラク軍の組織的な抵抗はやんだ。ブッシュ達があれ程憎んでいたフセイン政権は姿を消し、今はその残党が時折捕まっているだけである。こうして、米英はイラク国民を「解放」し、自由をもたらした。 軍事作戦は概ねうまくいった。いや、むしろできすぎだったかも知れない。しかし、イラクの人々は米英軍を「解放軍」として迎え入れはしなかったし、アメリカ主導の新しい国造りに完全に同調してもいない。むしろ、アメリカがいつまで自分達の土地にとどまるのかという警戒感の方が強い。また、空爆や誤爆、デモ隊への発砲などを通して、アメリカ軍への反感も強まっているという。
それらは予想されていたことだ。もともと米英はフセイン政権の打倒と石油資源以外に興味はなかったのだ。あの戦争が「テロとの戦い」だと位置付けられていたことを思い起こせばよい。つまり、彼等は「アメリカをテロ攻撃から守るため」に戦争を始めたのであり、はなからイラクの人々のことなどどうでもよかったのである。そうでなければ、住宅地にクラスター爆弾や劣化ウラン弾などの「大量破壊兵器」を投下するなどというフセイン以上の暴挙を平気でやれる筈はない。そこには、アメリカ国民の命の方がイラク国民の命よりも重い、そしてそれは疑う余地のないことだという彼等の認識がある。 査察を延々と続けることでミサイルなどの武器を廃棄させ、様々な情報を得ることでイラクを丸裸にし、その上で難癖を付けて攻撃をする。彼等は始めからそのつもりだった。しかも、彼等はまるで悪魔のような仕打ちを、ご丁寧にも神の名において行ったのである。
確かにイラク国民は自由を手にした。けれど、戦争で失われた命や傷付いた体が戻るわけではない。フセインがいなくなったのだから、自分の子供が死んでもこの戦争はよかったのだとか、足や腕がなくなっても自由が手に入ったのだから嬉しいなどと考える人間がどこにいるというのだろうか。自分の肉親や同胞が殺されたからといって、その悲しみと怒りのおもむくままに報復戦争を始めたのはどこの国だったのか。
今アメリカでは軍事力を持って素晴らしきアメリカの自由主義を広めていこうというネオコン達の主張が現実味を持って語られ始めている。それが世界中の抑圧された人々を救うことになるらしい。しかし、もしアメリカが本当に「素晴らしい」国ならば、軍事力などで押し付けなくても世界中にその理念やシステムは広まっていくだろう。そして、人々はアメリカという国を心の底から尊敬する筈である。 けれど、必ずしもそうなっていないのは、そのアメリカの(現在の)思想や行動が、世界中のアメリカ以外の人々に違和感を覚えさせ、あまつさえ警戒感や嫌悪感さえ抱かせているからではないのか。要するに、アメリカは怖れられているが敬われてはいない。いや、疎まれ、憎まれてさえいる。そのことに当のアメリカ国民は早く気付くべきであると思う。
そして、今回の戦争で最も印象に残ること、それは戦争それ自体の徹底的な「無意味」さである。どんな時代のどんな戦争も、それ自体は無意味だと僕は思っているが、今回程それがあからさまになった戦争もなかったのではないかと思われる。 これまで書いてきたように、この戦争には何の「大儀」も「必然性」もなかった。起こる必要のない、いや、決して起こってはいけない戦争だった。そんな戦争で、何の関係もない(主にイラクの)普通の人々が、足や腕を吹き飛ばされたり、内臓や脳みそを飛び散らせたりしたのだ。そして、失われるいわれの全くない多くの命が失われてしまった。勿論、その中には多くの子供達もいた。絶望的な傷を負った子供もいれば、十分な手当さえされれば命だけは助かった筈の子供もいた。しかし、どちらも死んでしまった。そして、子供を失った親と、親を失った子供と、その両方が背負ってしまった深い深い悲しみだけが、あの国には無数に残った。
僕はあるサイトで、日本では決して報道されなかったイラクの人々の無惨な死体の写真を何枚も見た。途中まで見て本当に気分が悪くなってきてやめてしまったのだが、海の向こうのあの地にいれば目をそらす自由はない。そして、それこそが戦争の本当の姿なのである。 何故この人達はこんな姿にならなければならなかったのか。「イラク人だから」それ以外の答えはない。何という不条理だろう。世界貿易センターの事件と何の関係もない人々が、アメリカ人のあの事件の敵討ちと憂さ晴らし、そして自己顕示のために殺され、肉塊と化している。 この世の中にこれ以上無意味なことがあるだろうか。何故こんな無意味なことを人間は続けているのだろうか。
これからイラクは米英中心に本格的に復興が始まるという。既に復興の主導権を巡って国連と「戦勝国」米英との間で駆け引きが始まっている。日本もどれ程のおこぼれに与れるか探りを入れているところだ。 自分達で壊しておいて、その復興の利権を自分で確保しようというのである。まるで茶番だ。アメリカはあの国を舞台に壮大な茶番劇を世界中に向かって見せようとしているのだ。その材料にされてしまうイラクの人々や、死んでいった人々こそいい面の皮である。 それ程遠くない未来に、子供を失った親や親を失った子供の中から、その恨みの爆弾をアメリカに向けて破裂させる人間が次々と現れるだろう。
何もかもが無意味で、虚しい。せめて僕は、この無意味さをしっかりと心に刻もうと思う。今後アメリカがその銃口をどこへ向けようと、いつもその先にあるのは輝かしい自由の「勝利」ではなく、ただ徹底的で虚しい「無意味」の屍が累々と横たわる世界のみである。
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