思考過多の記録
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2003年05月28日(水) |
彼等のテリトリーの外側から |
最近、電車の中で化粧をする人をよく見かける。昨日も、朝のラッシュの時間帯に、座席に座った女子高生がやおら鏡を取り出して眉毛を引き始めた。この「電車の中で化粧をする」人種は、出現してからまだ数年というところではないかと思われる。それ以前にもごくたまに見かけることはあったが、そういう人達はどこかやむにやまれぬ事情(寝坊して家で化粧をする時間が取れなかった等)を抱えているか、もしくは確信犯(愉快犯?)的にやって見せているかのどちらかだったと推測される。けれど、最近の化粧する人々は、どうもそのどちらでもなさそうなのだ。よく言われることではあるが、彼女達は「電車の中」と「自分一人の部屋」の区別がそもそもないという、これまでにはなかった感覚を持つ人種であるようだ。
その人種にとっては、満員電車に乗り合わせた周囲の人間は、「存在していない」に等しいのである。別の言い方をすれば、周囲にいる不特定多数の人間は、自分にとっては何の関係もない。つまり、確かに存在はするのだけれど、自分のテリトリーに入り込んでこない限りは、その存在を意識する必要のない「存在」なのである。言ってみれば、自分専用の部屋に置かれた「家具」と同じなのだ。家具の前で化粧するのを躊躇う人間はいない。 少し前の世代までは、満員電車の不特定多数の人達は、いわば「世間」だった。確かに自分のテリトリーには入ってこなくても、常に自分に対してどこからか「視線」を送ってきている存在として意識されていたのである。 さらに言えば、その不特定多数の人々は、自分の行動を規制する存在として機能していた。電車の中で服を着替える人がいないのは当たり前としても、例えば大声で話をするといったことでも、周囲の「視線」の手前、憚られるという意識が働いたのである。所謂「恥」の意識である。
現在の化粧する人々には、その意識はおそらくない。そもそも自分のテリトリーの外側に存在するものは、基本的に自分とは関係がないのである。だから、テリトリーの外側で何が起ころうと知ったことではない。極端な話、自分の一人隣の人間が誰かに刺されても、自分の化粧に支障がない限り、彼女は化粧を続けるかも知れないのだ。 別の言い方をすれば、彼等は自分のテリトリーの外側に対して自分がどんな影響を及ぼしているのかについても、非常に無頓着だ。禁煙タイムを呼びかける駅のアナウンスを尻目に平気で喫煙を続ける人達は、自分達が「ルール」を守っていないというだけではなく、その煙で他人の健康を害し、他人の服に匂いを付け、さらには吸い殻でホームを汚していることに気付いていない。というよりも、どうやら自分のしていることの影響が想像を想像する能力が決定的に欠如しているようなのだ。だから、彼等はしばしばこう言う。 「別に誰に迷惑かけてるわけでもないから」 そのくせ、彼等は自分のテリトリーを侵されることに対しては非常に敏感だ。禁煙の店内で喫煙していた客に注意して、逆にすごまれ、その後店に苦情の電話までかけられたという知り合いがいる。
こういう輩に対して、僕は他の大人達のように、したり顔で「道徳心の欠如」を語ったり、その原因を「戦後民主主義」のせいにしたりするつもりはない。ただ、一体いつからこういう自分のテリトリーの外側から自分を隔絶するような人種が登場してきたのかについて、非常に興味がある。 僕の意識では、ここ数年の現象ではないかと思われる。例えば携帯やパソコンといった「隔絶された個人」同士が結びつくツールの普及とか、子供部屋(個室)という一人になれる空間が行き渡ったといったことが容易に思い浮かぶ。また、彼等の親の世代の教育の仕方や社会の雰囲気なども関係しているであろう。 犯人探しは誰かに任せておけばよいが(そして、それは決して成功しないだろうが)、僕が少しだけ危惧するのは、こうした自分のテリトリーの外側に対する想像力が欠如した人種が成人し、社会を作り、子供を育て始めたとき、一体この国はどうなってしまうのかということだ。 また、さらに危惧されるのは、彼等があまりに外界に対しての想像力に欠けるが故に、例えば「拉致被害」や「民族」といった大きな「物語(フィクション)」に対して免疫がなく、その結果あまりにナイーブな反応を示すということである。 勿論、彼等が自分のテリトリーに閉じこもるにはそれなりの理由があるだろう。「犯人」ではなく、彼等にそうし向けている力が何なのか、彼等のテリトリーの外の世界から今暫く見ていきたいと思う。
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