思考過多の記録
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2003年06月01日(日) 善い生き方、悪い生き方

 「少子化対策基本法」なるものが超党派の国会議員によって国会に提出され、審議入りしているとのことだ。これは要するに、できるだけ子供を産んでもらうための手立てを講じようという法律なのだが、例えばということで、地方自治体手動の出会い推進事業だとか企業内合コンといったことが推奨され、それには補助金を払ったりするということらしい。また、条文の中には、結婚をして家庭を作り、子育てをしながら働くことのできる社会を作ることを「国民の責務」とうたっている部分もあるという。
 結婚せず、子供を産まない若い世代が急増していることに対しての、国を治める偉いおじさん達の危機意識がひしひしと伝わってくるというものだ。



 この動きに対しては、当然批判がある。その代表的なものは、子供を産むか否かという選択は基本的には個人の自由においてなされるものであり、国がとやかくいうことではないというものだ。確かに結婚・出産は各個人の人生の中での選択である。昔は許容範囲も狭かったが、どんな時代でも結婚・出産をしない生き方というものはあった。そして、勿論それは否定されるべきものでも何でもない。
 生物とすれば子孫を残すのは大切な営みであるし、そのために多くの個体(個人)がつがいを形成し、家族を作るだろう。けれど、それが大多数だからといって、結婚→出産に至る流れが「生物として自然」であり、子供を作るのは「義務」なのだと結論づけるのはどうだろうか。ましてそうすることが国民としての「責務」であると法律で決められてしまった日には、一体どういうことになってしまうのだろうか。



 かつて結婚・出産が「自然」なことだと思えた時代は確かに存在した。けれど、それは女性を家庭に閉じこめ、多くの権利(と時間)を奪い取ることによって成立していたのだ。女性が社会進出を遂げ、「家庭」から自由になり、「自分」らしい人生を送ろうとするにつれ、結婚・出産は一つの選択肢に過ぎなくなった。
 そのことが結果的に出生率の低下を招いたという論理は分からないではない。しかし、根本的な問題は結婚や出産が選択肢としての魅力を失っているということである。そのことに対する対策はいろいろあるだろう。何よりも子供を持つことの「コスト」を社会全体で負担していく方策を考える必要がある。その中には、子育てをしながら働き続ける人達に対する支援策(職場環境の京成を含めて)が入っていることは言うまでもない。北欧などその種の制度が整っている国では、かえって出生率は高いという統計もある。



 いずれにしても大切なことは、「結婚・出産しない」ことを含めて、多様な生き方を社会が許容することだ。出産しない人は実はそういう体なのかも知れないし、シングルマザーや独身を貫く人にはそれなりの理由がある。そういう人達に対して「何故産まない?」「何故結婚しない?」という形で圧力をかけることがあってはならないのである。愛する人と結婚をして子供を産み、家族を形成する。それが「普通」の人間の「自然」の姿であり、そこからはみ出す生き方をする人は「異常」で「不自然」な存在だ。そう決めつけるような社会であってはならないと思う。そういう人達の中には、自ら進んでその生き方を選んでいる人もあるだろうし、やむにやまれずそういう風に生きている人もいるのだ。
 社会(国)がするべきなのは、結婚や出産に踏み切ろうとする人がいる時、そのハードルをできるだけ下げてやることで、決してみんなを無理矢理そこに連れて行くことではないのである。



 少子化対策で焦っている政治家達の殆どは、若年層が減ることによる税収の落ち込み、社会保障(年金)制度の崩壊、そして労働人口の減少といった、「国」レベルの問題しか念頭にない。だから「産む、産まないは個人の自由といった考え方があってはだめだ」とか「子供を産むことは年金制度を支えるためだというのは、教科書ではいつ教えるのか」などといった発言が出てくるのである。もしも子供が年金制度を維持するためだけに必要なのだということになれば、子供は絶望のあまり自殺するか、年金生活者の大量虐殺に走るだろう。勿論、社会保障制度を支えるのが若年層であることは確かだが、そのために子供を産めということになると、それは全く別の話だ。
 彼等の論理で行けば、どんなに嫌な相手でも、子供を産むためなら誰かしらと必ず結婚しなければならず、どんなに仕事に生き甲斐を見出していても、またどんなに妊娠しにくい体であっても、何が何でも子供は産まなければならないことになる。それが「国民の責務」だからだ。



 奇妙なのは、そんなに出産・子育てに関心のある彼等が、子育てをしながら働き続ける女性達の多くが、実際の職場等でどれ程の不利益を被っているのか、また保育所などの施設の整備がどれ程遅れているのかといったことに対して、殆ど無関心らしいということである。だから、法律で企業内で合コンをする機会を設ければ出生率が上がるなどと寝惚けたことを考えるのだ。
 こんな奴らがよく結婚できたものだと、僕は心底感心してしまう。挙げ句の果てに、女性の未婚率の増加を「適齢期」の男の頼りなさ・情けなさに帰結させられた日にはたまったものではない。



 僕達は社会(国)を構成する。けれど、社会(国)に生き方を指図されるいわれはない。生きにくさを感じる人間が出てしまうような社会は、到底よいものとは言えないだろう。
 法律が個人の人生の善し悪しを規定する。そんな恐ろしい世の中が訪れるなら、誰が子供を産もうなどと考えるだろうか。


hajime |MAILHomePage

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