思考過多の記録
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2003年07月05日(土) コミュニケーション不全

 先日、小学校の教材を作っている僕の職場に、西日本のある県の教師から評価教材(テスト)の内容に関して、販売代理店を通じて問い合わせがあった。僕が学校に電話すると、電話口に出てきた件の教師−声の感じでは中年の女性である−は、クレームの内容を話し始めた。その話し方は、かなり居丈高で険のある調子で、かなり威圧的なものを感じた。
 内容自体は、立体図形の色遣いのためにその問題を間違えた子供がいたということ、また問題文の表現が悪く、何をきかれているのか分からないのでは?ということだった。内容上の完全な誤りというわけではなく、また当然同じ教材は他のいくつもの学校で使用されているのだが、同様の指摘は今まで1件も寄せられていない。勿論、その教師の言うことも分かるし、改善の余地はあるところなので、そのような趣旨の回答をしてその電話は終わった。



 ところがつい昨日、その販売代理店から僕の会社に連絡があり、その教師が僕の電話に対して非常に立腹しているとのことだった。彼女は、「私達の会社は間違っていない。あなたの指導が悪くて生徒が間違ったのではないか」という趣旨を僕が言ったと受け取ったらしいのである。僕は上司にそのような意図で発言はしていないし、そんな言い方をした覚えもないと伝えた。ただ、その教師の学校は、担当の販売代理店がこの春頑張って、全学年でうちのテストを採用していただいたというところである。代理店としてはそれが影響して来年以降の採用に影響を与えるのを避けたいとのことで、後のケアはするとのことだった。



 電話という顔の見えないコミュニケーションでは、微妙なニュアンスがなかなか伝わりにくい。そうなると、余程感覚を研ぎ澄ましていないと、お互いが自分の先入観だけでやりとりすることになりかねない。今回のケースはそれではないかと思われる。
 僕は確かにストレートに非を認めるような言葉を使ってはいない。完全なミスでもないのに謝ってしまうと、今度はそれが一人歩きして「あの会社の教材にはミスがあった」と宣伝されてしまうからだ。ただ、相手の言うことを最大限尊重して、意見としては取り入れて改善していきたいという思いは伝えたつもりだった。もし対面していれば、僕は頭を下げていただろう。そしてその教師も、僕の「態度」から言葉の外のニュアンスが掴めた筈だ。ネットもそうだが、顔が見えず、息遣いも伝わりにくいメディアでのコミュニケーションは、「言葉」を使っているということで無条件に伝わっていると僕達は思ってしまう。そのことの危険性を思い知らされたエピソードだった。こうしたコミュニケーションツールのためのスキルを磨くことが必要になってくるだろう。



 そしてもう一つ、「先入観」ということで言えば、この教師にとって我々教材業界の人間は、販売代理店も含めて自分達よりも一段「下」の存在という認識なのだと思う。これはこの教師に限ったことではない。多くの学校の教師は、僕達のことを「業者」と呼ぶ。この言葉遣いの背景にある種の「差別」意識が見え隠れするのは、実際に教師と接してみるとよく分かる。そしてその傾向は、日本の東や北よりも西の地域で強い。これも実際に僕が見聞きしたことからそう判断できる。
 件の教師は、自分達より「下」である「業者」の人間が自分のクレームで電話をかけてきた以上、自分に対して平謝りしてくれることを期待していたのではないか。「業者」とはそういうものだという「先入観」があったのである。そして、そのことで自分自身の「客」として、「教師」としての優位性・正当性を確認したかったのだと思う。けれども、僕はそうしなかった。それで、その教師は教師としての自尊心を傷つけられたと感じたのだと推測できる。



 勿論、「説明責任」が言われ出したことによる教師と親との関係の変化等、この問題の背景には別の事情も絡む。しかし、あの頭ごなしに人を説教しにかかるような物言いが、時に相手に不快感を与えるということ、そして、たとえ自分が相手に対して優位な立場であっても、それが露骨に態度に出すのは自分の人間性の貧しさを露呈してしまうばかりか、相手に対して失礼になるということを、あの教師は学んでこなかったに違いない。それが「学校」という閉ざされた世界に永年住んできたことによる弊害なのは明らかだ。
 あの教師はこれからも、親や「業者」に「先生、先生」と呼ばれ、頭を下げさせていくのだろう。そう、彼女はいつも正しい。世間から切り離された「学校」という世界の中でだけは。


hajime |MAILHomePage

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