思考過多の記録
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2003年08月01日(金) 苛立ちの時代

 広島で平和記念公園の原爆の子の像に飾られた千羽鶴が放火され、犯人が捕まったそうだ。関西学院大学という「名門」大学の大学生だった。その動機は、「むしゃくしゃしてやった」というものだったという。以前この像には、赤いペンキがかけられるという嫌がらせがあったり、同じように千羽鶴に放火されたりしたので、防護用の施設と監視カメラが設置されたりしている。前の事件の場合、多少なりとも「思想犯」の匂いがしたものである。けれど、今回は思想性はゼロ。完全な「鬱憤晴らし」のためだったらしい。



 この男の目には、夥しい数の千羽鶴はどう映っていたのだろう。ただの紙屑同然だったのだろうか。単なる「燃えやすいもの」「燃やすと騒ぎになるもの」だったのだろうか。あの日、一瞬にして熱戦に溶かされ、また熱さの中で水を求めながら苦しみながら命を落とし、また終戦後もなおその後遺症に悩まされながら生きている多くの人達、またその人達とともに二度と「あの日」が訪れないように強く願っている人達。そういう夥しい祈りや願いが込められているという背景は、彼の頭には全くなかったに違いない。もしかすると、そんな日があったことすら知らないのかもしれない。または、「知識」として持ってはいても、それは教科書や参考書の単なる「記述」にすぎず、それを生きた人達の存在を彼は感じ取っていなかったのかも知れない。
 いずれにしても、他人と歴史に関する驚くべき愚鈍さ、無感覚さであり、恐るべき感受性の欠如である。



 ここ最近、こういう事件が多すぎる。姉妹が楽しそうに遊んでいる姿が気に入らないからと、カッターナイフで斬りつけたり、人間関係に疲れ、両親を困らせてやりたかったからとバスを乗っ取ったり、態度が悪いからと寄ってたかって相手を殴り殺してしまったりする。たまってしまった自分の鬱憤を晴らすために他人を傷つけたり、時には命さえ奪ってしまう。子供から大の大人まで、この傾向が広がっているように見える。



 一体何にそんなに苛立っているのか。個々の事例を見れば理由は様々である。しかし、一つ言えることは、この国の社会全体に何か鬱屈したものがマグマのようにたまってきているということである。
 右肩上がりで成長や進歩していくことを望めなくなってしまった時代。社会的地位や財力の差で、自分の所属する階層が決定し、どんなに頑張ってもそこから容易には抜け出せないことへの諦めや挫折感。そして、日々明らかになるこの社会の様々な病理に感じる、やり場のない悲しみと怒り。競争の勝者と敗者の間で、目に見えて広がっていく格差。大きな国に蹂躙され、言いなりになるしかない小さな国に暮らしていることの無力感。僕達を苛立たせる要素は枚挙にいとまがない。



 日々起こっている凶悪犯罪や不可解な事件は、こうした不満や鬱憤のはけ口を、他人を傷付けることに向ける人達の増加を示している。その行為に及んだ場合、後々自分がどうなってしまうのか、そんなことにすら考えが及ばない。とにかくため込んだ鬱憤を、目の前の偶々そこに居合わせた誰かにぶつけることで発散させるのだ。一頃、「きれる中学生」が話題になったが、今ではそれが社会全体に広まってしまっているのだといってもいいだろう。
 これに対して、「他人への思い遣り」を説くことは、おそらく校長先生が「命の尊さ」を説くことと同じくらい無意味である。ましてや道徳教育の復活や教育基本法の改正で、「戦後教育」とやらの影を一掃しようとするのはためにする論議というものだ。
 ではどうすればいいのか。誰もその答えを持ち合わせていない。だからこそ僕達はいっそう苛立ち、日々新たな「はけ口」を求めて彷徨うことになる。



 最も憂慮されることは、いつかこの「怒り」や「苛立ち」を代弁し、自分達に代わって鬱憤を晴らしてくれる強力な存在を、人々が求め始めることだ。すでにその動きは始まっている。繰り返される政治家達の「失言」は、そのアドバルーンの意味がある。
 人々の不満を一身に背負ったその誰かが、大きな力を背景に、弱い者や他の国を攻撃する。そして、それを見て人々は喝采する。そんなおぞましい時代は、案外すぐそこまできているのかも知れない。


hajime |MAILHomePage

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