思考過多の記録
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2004年10月02日(土) |
社会にとって‘有用’な自分 |
去年まである劇団(演劇研究所)の研究生をやっていた後輩の女性と、久し振りに夜の東京で会った。彼女はこの春にその研究所を卒業した後、飲食店で働きながら、7月に仲間と一緒に個人作品の発表会に参加した。 そして現在、彼女は芝居を始める前にいた会社に、契約社員のような形で復職し、校正の仕事をしている。朝から晩まで、あちこちの現場で文字を追いかける生活しているそうだ。詳しくは語らなかったが、彼女の実家で何かあったらしく、今後は芝居をメインとはせず、仕事の合間に作品を発表する生活スタイルになるようである。
彼女の辿ってきた道は些か変則的だ。大学時代に僕の芝居に出演したことのある彼女は、大学卒業後ある出版社に就職するが、その会社を辞め、暫くは高校時代の友人の実家が経営するスナックで働いたりもした。その後、フリーターを経て再び就職。今度も出版社で、任された雑誌の部数を増やす等の実績を残したが、演劇への思いを断ち切れず、数年で退社。フリーターをしながらオーディションを受け、その筋では有名な劇団の研究生になった。この春までいた研究所は、二つ目の場所であった。 つまり、彼女は社会人(会社員)とそこから外れた存在の間を、大学卒業後の十数年間で行ったり来たりしたことになる。
そんな彼女が最近考えていることは、久々に社員と同等の責任を持った仕事に就いてみると、 「自分が社会に組み込まれていると実感できる」 というのだ。これは、フリーターで仕事をしているときには感じなかったことであるという。そしてそれは、 「自分は社会にとって‘有用’な存在なんだと思える」 ということにつながる。 しかし、と彼女は考えるのだ。芝居をやるために頑張っている人達、そして頑張っていた彼女自身は、社会にとって‘有用’な存在ではないと言ってしまっていいのだろうか、と。 何の志もなく、やり甲斐も持たず。ただただ食うためだけに惰性のように働いていても、それが「正業」でありさえすれば、その人は社会の役に立っていて、逆に芸術など直接的には何ものをも生み出さないものを志しながら、それをメインにするために「正業」には就かず、アルバイトなどの不安定な身分で食うための仕事に従事する人は、社会の役には立っていない。果たして本当にそうなのか、と彼女は問いかけている。 しかし、その一方で、志を貫くことから降りてもう一方の立場に回っただけで、自分が社会に‘有用’な人間になったかのように感じてしまう。その矛盾した感覚に囚われる自分に、彼女はいささかの戸惑いを感じているようだった。
確かに、芸術などの生産性のないものは、商業ベースに乗るような一部のものを除いて、社会にとって直接的に‘有用’だとは言えないかも知れない。しかし、それを志す幅広い層に支えられてこそ、そのごく一部の‘有用’な作品なり作者なりが生み出されているのだ。また、そもそも直接社会的な活動とシステムに組み込まれ、社会を回す「部品」や「歯車」の一つになること=‘有用’な存在になれないことは、社会にとって、そしてその人にとって価値のないことなのだろうか。 そう問いかけたくなって、しかしふと思うのは、「正業」以外のものを志しながらも、結局は芽が出ずにそこからも脱落していったり、現実に目をつぶり、「夢」を食い潰しながらそこにしがみつき続ける圧倒的多数の人達のことは、一体どう考えればいいのだろうか。
意地悪な見方をすれば、彼女は「正業」に近い立場に転身することによって、その宙ぶらりんな状態を回避したのだとも言える。別に彼女を責めているわけではない。これは多くの人が使うであろう当たり前の処世術である。そして、その立場に何となく居心地の悪さを感じているというのも、これまた多くの人に共通のことだ。 はっきりしていることは、社会に組み込まれようがそこから外れようが、人は生き生きと生きることもできるし、死んでいるみたいに生きることもできるということだ。安全地帯はどちらにもある。違うのは、社会の大多数の人がいる場所なのか、そうではないのかということだけだ。 そして、究極的には、社会の求める役割を、社会の求めるリズムに従って確実にこなしていく能力有無が、その人が「社会にとって‘有用’」かどうかを決めるのだとも言える。
「社会にとって‘有用’」とはその程度のことで、その立場の社会の認知度が高いというだけである。そして、そちら側の方が、法律をはじめあらゆる意味で保護されている。もし演劇がイギリス並みに社会的な認知を受ければ、役者・スタッフとその卵も「社会に組み込まれた」「社会にとって‘有用’」な存在になるのだ。 どちらの側にいようとも、究極的には「思いこみ」の世界である。しかし、いずれにしても転身を図った者の居心地は悪い。それは、完全に「思いこめない」ところからくるものである。その意味で、彼女の居心地の悪さは、いい歳をして二足の草鞋を履き続ける僕のそれと、本質的には同ものなのである。
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