思考過多の記録
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ずっと同居していた父方の祖母が、先週あたりからめっきりものを食べなくなった。それまでは、90を超える高齢にしては食欲があり、顔の色艶もよく、やけにふくよかなな感じだった。しかし、その少し前から徐々に痩せはじめ、口数もめっきり少なくなった。 耳が遠いために大音量にしていたテレビも、いつしか寝床で見ることが多くなり、そのうちに一日の殆どの時間を眠って過ごすようになっていた。夜中には殆ど15〜30分おきに通っていた便所へも行かなくなって、食事の量はますます減っていった。
そして先週末、叔母が祖母を救急車で病院に担ぎ込んだ。脱水症状が進んでいるのではないかと疑ったのである。家からかなり離れた大きな病院は、祖母がこれまでいくつかの病気の時に通った所であり、祖父が心臓を患って入院し、息を引き取った病院でもあった。 見舞いに行くと、ベッドに横たわった祖母は、鼻からチューブを入れられ、おそらく心臓の鼓動をモニターして警告音を発するためと思われる装置を身につけて眠っていた。呼吸はいくらか荒かったが、点滴のおかげか顔色はよくなっていた。 しかし、病院のベッドの大きさのためか、酷く小さくなってしまったように見えたのだった。父親は、 「年内持つかどうか分からないな」 と言った。
その日だか前日だかに撮影された祖母の肺には影があると言われていた。実際にレントゲン写真を見た叔母によれば、肺にたくさんの斑点のようなものが写っていたとのことだった。その時点では、肺炎であり、もしかすると体の別の部位に癌ができている疑いもあるという診断であった。 ただし、高齢のために、詳しい検査をすることはできないとのことだった。 入院した翌朝目覚めた祖母は、 「何でこんな所にいるのか」 と訝り、早く帰りたいと訴えたそうである。 また、訪れた僕の従姉妹に対して、「抱いてほしい」と言ったという。
そして今日。父親を含めた祖母の子供全員に、病院の医師の所見が告げられた。 祖母は、末期の肺癌だった。おそらく、あと数週間であろうとのことだった。医療が祖母のためにできることは、もはや殆ど残っていないようだった。 見舞いに行った叔父によれば、本人は調子が戻ってきたらしく、病院の食事を結構食べたという。
この10数年、僕は祖母との同居生活を続けていた。祖母が衰えていき、人生の終着点に向かって着実に近付いていることは、近くから見ていれば手に取るように分かっていた。だからといって僕に何ができたわけではない。 そして今、いよいよ「命の終わり」が見え始めた。僕は言葉を失って立ちつくす。 2004年11月。 間もなく、冬が訪れようとしている。
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