思考過多の記録
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2004年12月23日(木) 彼岸へ

 入院していた祖母が膵臓癌のため亡くなったのは、もう3週間程前になる。
 仕事中の職場に母からの電話があり、病院から「もう駄目だ」と連絡があったと言われた。間に合わないとは思ったが、取りあえず定時まで仕事をして、地下鉄を乗り継いで40分程の病院に向かった。



 僕がこの道筋を辿るのは2回目だった。
 あの日僕は休日出勤をして、その足でお見舞いに向かおうと思っていた。しかし、手ぶらで行くのも気が引けて、会社の最寄り駅の花屋で、バスケットに入った花を買っていったのである。この数週間前に末期患者の個室ばかりが並ぶ病棟に移された祖母の病室に入ると、背を向けて横たわった祖母は、僅か数週間の間で一段と細くなり、別人かと思う程に頬がこけてしまっていた。
 殆ど眠っているかのような祖母の耳元で、叔母と一緒に祖母を呼ぶと、祖母は顔をこちらに向けてうっすらと目を開けた。
「花を買ってきたよ」
と言うと、祖母は絞り出すように、けれどはっきりと、表情にならない表情で、
「うれしい」
と言った。そしてそのまま、再び混濁する意識の海へ帰っていった。



 あのときのあの一言が、おそらく僕に対して発せられた意味のある最後の言葉になるのではないかと、あの直後からなぜか僕にはそんな予感があった。
 そして、その予感は現実になった。
 僕が病室に到着したときには、祖母はもう病室から運び出された後だった。骨粗鬆症だった祖母に対しては、延命のための心臓マッサージはできないと医者から言われていた。ちょうど医者が病理解剖を含めた今後の手続きについて、父親や叔父・叔母達に説明をしようというところであった。
 地下の一室に安置された祖母の遺体を顔にかけられた白い布を取り、その顔を見たとき、無理矢理はめられたと思われる入れ歯のせいなのか、それとも頬がこけて輪郭が変わったせいなのか、僕にはそれがどうしても祖母本人だとは思えなかった。



 祖母の棺は家の祖母が使っていた部屋に戻ってきた。
 その週末に行われた通夜は冷たい雨の中、そして翌日の告別式は一転して春のような暖かい風が吹いていた。
「お別れでございます」
と葬儀屋が言って、みんなで棺桶の中に花を入れる段になって、泣き出す人達もいたのだが、僕は寂しさを感じながらも、やはりどうしてもそれが祖母本人とは思えなかった。祭壇に飾られた遺影の方が、余程本人らしく思われた。



 火葬場で最後に祖母の顔を見たときにも、涙は出てこなかった。祖母が入院していたこの1ヶ月あまりの中で、心の奥深くで、僕はこのことを既に受け入れていたのかも知れない。
 火葬場の職員が深々と頭を下げ、祖母の棺桶が釜の中に送り込まれる。ゆっくりと鉄の扉が閉まり、炉が低く不気味な音を立て始めたとき、僕は祖母が彼岸へ旅立ったのを感じた。



 祖母の骨は、骨壺の半分程の量しか残らなかった。子供を6人産み、育て、大きな病気もいくつかした祖母の骨は、既に細っていたのかも知れない。
 骨を拾うときも、骨壺が家に戻ってきたときも、涙は出なかった。けれど、寂しさは残った。かつて、僕が保育園に入る前に、仕事にでている母親に代わって面倒を見てくれていた遠い日の記憶が、どこかに残っているせいかもしれない。
 それでもぼくは涙を流さなかった。既に祖母はあちらの世界に行ってしまった。僕はそれを理解していた。



 先週末、告別式から2週間が過ぎた日、僕は初めて祖母の夢を見た。それはまだ比較的元気だった頃の祖母の姿で、突然襲った雷雨の中、家の者に交じって洗濯物を取り込もうとしている場面だった。
 生きているときの祖母は、本当にそんな感じだった。年をとっても、なるべく周囲に迷惑を変えまいとして、何でもできるだけ自分でやろうとしていた。
 目が覚めたとき、そんな祖母はもうここにはいないのだという事実が、初めて実感を伴って僕の胸に押し寄せてきた。



 そのとき、祖母が亡くなって以来初めて、僕の目から涙が溢れ出てきた。


hajime |MAILHomePage

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