思考過多の記録
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2004年12月29日(水) 何処にいても

 掲示板に書き込んでくれたある芝居仲間によれば、僕は「何処にいても違和感がないし、何処にいても違和感がある」そんな男なのだそうだ。口では否定する素振りを見せながらも、言われてみればそんなものかも知れないと内心思う。だから僕は徒党を組まないし、徒党を率いない。一匹狼というと格好がよすぎるので、「動物占い」の自分のキャラに引っかけて言えば、‘一匹羊’ということになろうか。それなのに、何故「芝居」という、どう頑張っても一人では成り立たないメディアに魅せられたのか、今もって謎ではある。



 一見すると、何処にいても僕はそこに馴染む。空気を読んで、その中で出しゃばらないようにするのが得意なのである。転校生を2回経験したことが大きいだろう。転校生は何もしなくても浮いた存在だ。その存在感をいかにして消すか。それが僕の至上命題だったのだ。僕は、カメレオンのようにその場にとけ込む術を覚えた。
 それをある程度成功させながらも、一方で僕はいつでもその場に対しての違和感を抱いていた。それは強烈なものではなく、まるで‘空気’のような違和感だった。戦ってその場の空気を変えるというよりも、誰にも気付かれずにその場から去りたい、そんな違和感だった。



 それは、何処に行っても僕につきまとった。「生まれてきてすみません」とまでは言わないけれど、何故生まれてきたのかを自ら問いたくなるような感覚である。といって、自ら命を断ち切ってしまわなければならない程の積極的な意義をも、僕は自分の生には見出せない。
 その感覚をとことんまで突き詰め、のっぺりとした日常の中にその違和感を立ち上がらせようとしていたなら、僕は表現者(芸術家)として大成していたかも知れない。逆に、その感覚をとことんまで押さえ込み、葬り去って、みんなの中にとけ込んでしまうことができたなら、今頃は人並みに幸せな結婚をして、仕事も充実した、そこそこ平和な暮らしができていたかも知れない。
 どちらもそれなりによかったのだが、今の僕がそのどちらも手に入れられていないのは、どうもこの違和感に対する僕のいい加減な姿勢が原因のようである。



 それでも僕は、この言葉を僕にくれた芝居仲間に感謝している。だって、僕の違和感は誰の目にもとまらずに、僕自身がまわりに完全に埋没した存在なのかと思っていたのだから。いるんだかいないんだか分からないような存在のまま、歳だけとっていくのではあまりにも寂しい。これから僕は、この奇妙な違和感を何とか形に表すべく、活動していこうと思う。違和感の使い道としては、あながち間違ってはいなかろう。
 問題は、延々と続くのっぺりとした、けれど「生きる」ことに忙殺される日常の中で、この違和感が徐々に摩耗してきつつあるということだろうか。いや、本来はそのことが平穏な生への第一歩になるのだから、それでいい筈なのだ。しかし、僕にはそれが何故か受け入れ難いことに思われる。
 そう、生きていること、それこそが僕の違和感の全ての源である。


hajime |MAILHomePage

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