思考過多の記録
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喪中のため、比較的静かな年末年始を送っている。 そんな中でも、新年の挨拶を寄せてくれる人達がいる。そして、行き違いから年賀状をくれた人もいる。そしてその中には、結婚を知らせるものが何件かあったりする。
昨年は純愛が何年ぶりかのブームになった。巷に流れる歌も、多くは恋の切なさを歌い、愛の喜びを歌い上げる。愛する人といること、いや、愛する人がいること、それだけで喜びであり、幸せであることに間違いはない。何より、生きていることに対する喜びを感じることができる。 残念ながら、昨年もそんな人と出会うことはなかった。
今年、僕はまた一つ齢を重ねる。そのことは、出会いの可能性をこれまで以上に限られたものにすることは疑いがない。そのことに対しては、僕はもう諦めの境地に入りつつある。やはりそうなるのだという納得の気持ちも出てきた。 けれども、愛する人といることが何故幸せなのかを考え、それは自分が生きていることの意味や意義を与えてくれるものだからだと思い至ったとき、僕は少し寂しさを感じる。僕にはそれを感じるすべは与えられていないのだから。
僕は数ヶ月後に一つ齢を重ねる。僕がここまで生き延びてきた理由はただ一つ、命を捨てることへの恐れである。いや、正確には、命を捨てる直前の苦しみや痛みなどに対する恐れである。逆に言えば、それ以外の理由で、自分の生を積極的に捉えたことは終ぞない。 僕が生きていることを、僕は積極的に肯定できない。何故なら、それを「愛」という形で積極的に肯定してくれる人は、今まで存在しなかったからである。そして、これから先も、もしかしたら一人も存在しないのかもしれない。
よく大災害や戦争があると、生き残った人々は、自分が生きているということのかけがえのなさに気づき、命の重みを感じたりするのだが、誰にも選ばれていない僕はそんなことを感じることもできない。 愛する人がいないということは、僕の命がなくなっても困る人もいなければ、心底悲しむ人もいないということだ。それならば、一体この命は何のためにあるのだろうか。誰のためにもならない命は、一体何のためにあるのだろうか。誰からも愛されない命は、一体何のためにあるのだろうか。
今年も僕は、死ぬのが怖くて生き延びた。一体いつまで生き延びるのか。意味のない人生は、一体いつまで続くのか。 今年、幸せになっていく人達を見送りながら、僕は自分の愛なき空虚な未来を思う。
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