思考過多の記録
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先月亡くなった祖母の49日の法要が、降りしきる雨の中行われた。今朝まで祖母の遺骨は家にあって、毎日のように線香を上げていたのだが、これまで兄や祖父のために手を合わせていた墓の中に納められた。これをもって祖母はこの世との縁が切れ、完全に向こう側の人になった。 寂しい限りだが、考えてみると、実際に一つ屋根の下で暮らしていたこの十何年間の日常の中で、僕はそれ程祖母の存在を強くは感じていなかったと思う。僕の帰宅が遅く、また家を出るのが早いため、祖母とは一週間まるまる顔を合わせないということもあったのだ。それでも僕は、特段の寂しさを感じなかった。祖母の存在が完全に消え、記憶の中にだけ存在するようになってから、僕は寂しさを感じるようになったのだ。
形あるものを愛することは難しいのかも知れない。「ロミオとジュリエット」や「世界の中心で愛を叫ぶ」といった純愛ものは、相手と完全に結ばれることなく終わる。そして、それが人々を感動させる。物語の恋人達にとって、そして物語を見ている観客にとって、「愛」は幻想であり、妄想である。だからこそその「愛」は完成し、無謬であり、無敵なのである。 しかし、もしもロミオとジュリエット、朔太郎とアキが交際を始めたら、途端に2人の関係は「現実」になる。「現実」の人間関係においては、「無敵」で「無謬」な愛などあり得ないことは、物語を見ている人達はいやという程分かっている。だからこそ、ロミオとジュリエットは心中し、アキは病死する。そうしなければ、無敵の「愛」は完成しないのである。
形のないものは誰をも裏切らない。それは宗教に似ているかも知れない。「国」や「民族」や「郷土」といった形のないものへの「愛」を煽り立てたり、それに乗ってしまったりする人間が多いのは、それが原因である。 「国」も「民族」も「郷土」も、それを愛する人を裏切らない。何故なら、愛する人はその人にとって無敵で無謬の対象を妄想によって作り上げ、それを愛しているからである。つまり、その人にとって「国」や「民族」や「郷土」は、その人の幻想の中にしか存在しないのである。自分が作り上げた幻想が自分を裏切らないのは当然のことだ。 「国」や「民族」や「郷土」を「神」や「恋人」と置き換えてもいいだろう。相手に裏切られない「愛」、これ程幸せなものはない。だから人は、現実に疲れると幻想にすがる。
祖母はもう、僕の幻想の中にしか存在しない。そこには軋轢もないし、誤解もすれ違いもない。疎ましさも感じない。だから僕は、祖母の不在を悲しむ。その意味では、おかしな言い方に聞こえるだろうが、これは幸福な悲しみと言っていいのかも知れない。 例えば、北朝鮮の拉致被害者が帰ってくる。その不在を悲しみ、再会の日を切望していた家族は心から喜ぶ。しかし、やがては、異なる人間同士による「日常生活」というやっかいなものが彼等を支配する。一緒にいるだけで幸福だった生活も、摩擦を含む普通の「人間関係」に変わっていくのだ。何故なら、お互いにとって、相手はもはや「幻想」の中ではなく、現実に存在しているからである。
「会えない時間が 愛育てるのさ」という昔の歌謡曲の文句がある。まさに目の前にいる、現実の相手を愛すること。それがいかに困難であるのかを表している。 何とかそういう「愛」が可能にならないかとは思う。しかし、それには、自分にも相手にもある種の「強さ」が必要とされるだろう。現実の「愛」を引き受けるには、それなりのキャパシティがいるのである。
僕は祖母をどれ程受け入れていたのか。どれ程祖母の愛に応えていたのか。考えると、非常に心許ない。そのことを祖母に確認しようにも、既に祖母は墓の中。この世との縁が切れた存在である。
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