思考過多の記録
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入社以来ほぼ14年間所属していた部署から、今月新しい部署に異動になった。年齢が0に戻ったこの年に、まさに0からのスタートである。前の部署の仕事を極めた感は全くなく、逆に極めていい加減にやっていた感じがあったのだが、さすがにそれだけ長く勤めていると、変わるにあたってはそれなりの感慨もあった。 当然、職場の環境も変わる。そして仕事の内容も変わる。周囲の見方は、以下の2点でほぼ一致している。今度の職場の仕事内容の方が、僕の特性に合っているのではないかということ。そして、今度の上司の方が、これまでの上司よりも、一緒にやっていくのが難しそうだということである。
そんな新しい職場の仕事内容に関わる初めての対外的なイベントが先週あった。「教育フォーラム・今こそ“人間の命”を考えよう」という催しで、僕の勤め先が後援に名を連ねている。内容は、命をテーマにした講演と、パネルディスカッション。講師は、全身に転移した癌と闘いながら執筆活動を続けるエッセイストの絵門ゆう子さん、日々瀕死の救急患者と格闘する墨東病院救急救命センター部長の浜辺祐一さん、そしてベトナムからアフガンまで世界の戦場をカメラで記録し続けてきた報道カメラマンの石川文洋さんである。それぞれ短い時間ながら、印象的なお話をして下さった。 皆さん、何らかの形で直接「命」の現場に身を置いている方々なので、お話にも迫力と説得力がある。3人とも、どちらかといえば「命の終わり」=「死」に近い場所にいて、そこから「命」を見つめているという感じである。それだけに、本当の意味で「命」の重みを知っているのだろう。浜辺先生がおっしゃっていたが、傷付いたり死に直面して初めて、健康や生きていることのありがたさを知るのでは手遅れである。でも、悲しいかな、失われて初めてそのものの尊さを知ることの方が圧倒的に多い。それは、平和が失われて初めてその大切さを知るのと同じである。人間とは、なかなか学習しない生き物だ。
後半は、主に学校・家庭という現場で「命」をどう子供達に教えていくかという話で、現役小学校教諭の深澤久先生、現役中学校教諭の大村隆之先生、そして教育ジャーナリストの青木悦さん。横山験也さんの司会で、それぞれ子供の現場からの報告があった。 こちらは、実際の現場から離れた場所で、如何に「命」に関することを教えるか、実感させるかという話が中心になった。特にここ数年は、子供達に「命」の実感が急速に失せている。いとも簡単に誰かを傷付け、ときには殺す。それがどんな重大なことなのかを理解しない。環境の変化などからやむを得ない面もあるが、そうとばかりもいっていられないので、それぞれの方々が、様々なアプローチで子供に「命」を伝えようとしている。この場合、通り一遍の言葉や押しつけでは、決して子供の心には届かない。「人殺しはいけない」といくら口で言ったところで、無関係の人々を大量に殺戮する命令を下した人間が、圧倒的な支持で大統領に再選されてしまう国があるのがこの世界である。
では、どうするのか。そう簡単な処方箋はない。結局、少しでも子供が「命」に関して真剣に考える機会を増やしていくしかないのだろう。そんな機会は、実は結構転がっているものである。ただ、それを見ないようにしてみんな通り過ぎているだけだ。実際、僕自身も気が付かないうちにそういうことに鈍感になっている。 ある意味、石川さんのお話にあったように、戦場では毎日死体を見るので、次第に死体に対して鈍感になり、死体の隣で弁当が食べられるようになるという状態に似ているだろう。「生」の希薄化が言われて久しいが、それは同時に「死」の空洞化にも繋がる。「生」も「死」も実感を伴って受け入れられない人間が増えているのだ。つい先日も、人が苦しんでいるところを見て性的興奮を味わう目的で、自殺系サイトを通じて知り合った人間を何人も窒息死させた男がいた。 「命」について伝えようとする親や教師が、自分達や身の回りの「命」に関する体験や出来事を、できるだけ生の言葉で語り、子供達にぶつけていくという正攻法しか、今のところなさそうだというのが僕の感想である。
新しい職場では、これまでと違って、仕事を通じてこういったことを考える機会が増えていきそうである。これまでの仕事からはかなりの質的な転換であるが、大変そうな中にも何かしら面白味を発見できるかも知れない。 頭の中のこれまでと違った部分を働かせなければならないというのは、面倒な反面、それだけでも楽しいものである。これもまた、僕の「生」=「命」が持続していればこその体験である。
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