思考過多の記録
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2005年08月14日(日) 彼等の声

 毎年8月15日が近くなると、戦争を巡って様々な言説がメディアに登場する。今年は敗戦60年にあたる節目の年ということで、いつにも増してそういう企画が多いようだ。
 60年といえば、敗戦の年に生まれた人が還暦を迎えるというくらいの年月である。これまでも言われ続けてきた「記憶の風化」が現実のものとなりつつある。戦場での体験はもとより、空襲や敗戦当日のことを語れる世代がどんどん上になってきている。そのうち、直接体験した人から直接話を聞けた世代が高齢化してくることになるだろう。そうなれば、風化はさらに進むことになる。



 NHKのBS2で、著名人の昭和20年の証言を集めた番組を放送中だ。節目になる日の自分や周囲の状況を語るという内容だが、今日は8月15日だった。敗戦を伝える玉音放送の日ということで、まさに全ての流れが変わるときのことなので、非常に印象的な証言が多い。14日夜半から15日未明まで空襲を受けた都市の焼け野原で玉音放送を聞いたという早乙女勝元さんの話や、宮城の前に多くの人が土下座していて、中には切腹しそうになっている人もいたのに、少し歩いて銀座まで来たら、町が妙に明るく華やいでいたという関根元ヤクルト監督の話などが特に印象深いが、どの人の証言にもそのときの自分や周囲の戸惑い、喜怒哀楽が折り込まれていて生々しかった。あれは教科書の中の話ではなく、本当にあった出来事なのだと実感した。



 あの日1日の話を聞いただけでも、そこにいたる戦争の日々の中で、如何に人々が翻弄され、多くの命が失われていったかがよく分かる。被爆者の証言を聞いても思うが、戦争は数え切れない人間の人生を狂わせた。そして、数え切れない程の悲しみも生み出した。そして、誰も明確な責任をとらなかった。
 今、あの戦争の正しさを言い立てようとする人達さえ存在する。そして、その声は日増しに大きくなっているように感じる。それを声高に叫ぶ人達の殆どは、あの日、この国に存在していなかったのである。



 空襲で親兄弟を失い、あずけられていた親戚の家で敗戦を知ったという人が、
「あなたの親も兄弟も、結局は犬死にだったんだね」
とその親戚から言われて、子供心にズキンとした、と語っていた。
 確かに、認めたくはないことである。誰も、愛する人の死が無意味だなどと思いたくもない。
 しかし、残念ながらそれは事実だと僕は思う。
 特に兵士だった人なら「国に殉じた」と綺麗な言葉で語られるだろうが、実態は犬死にである。ましてや、戦闘に巻き込まれた一般の人々の死は、不条理以外のなにものでもない。年頭の御前会議で天皇が降伏を決断していれば、東京大空襲も広島・長崎もなかったのである。そこで命を落とした人々や、南方の島で見捨てられて飢えや病気で死んでいった兵士、特攻隊で敵艦に突っ込む前に撃墜されてしまった兵士、バンザイクリフから身を投げた人達の死に何の意味があるのだろうか。残された彼等の身内の悲しみに、どんな意味があるというのだろうか。



 もしも、彼等の死を「犬死に」ではないと言える理由があるとすれば、それは戦後60年、不戦の誓いを立てたこの国が、曲がりなりにも平和を保ってきたことではないだろうか。いや、それを除いて、彼等の死に意味を与えるものなどない。
 もし今、あんな思いをして勝ち取った平和な社会を、僕達が歪める方向で変質させていっているとすれば、それはあまりにも傲慢不遜な態度だと言えないだろうか。無意味に失われた命に大して、あまりにも驕った、無神経な振る舞いではないだろうか。自由で平和な社会が築かれているその土台の下に、どれだけの屍が眠っているのかが想像できない程、僕達の想像力は貧困になってしまったのだろうか。



 彼等の死を無駄にしない方法、それはこの平和を僕達が守り抜き、確実に後世に遺すことである。そして、あの時代の人達のような辛く、悲しい思いをする人が今のこの世界から一人でも少なくなるように、今を生きる僕達一人一人ができるだけのことをしていくことである。失われた命や、狂わされた人生の重みに対して、僕達ができることはそんなことくらいだろう。
 もしも平和だったら、死ななくてもすんだ人や、もっと違った人生を歩めた人は数知れない。当然だが、その一人一人にとって、人生はそのとき1回きりだったのである。そしてそれは、もしかしたら僕達だったのかも知れなかったのである。



 あの時代を生きた人々、そして死んでいった人々の「記憶」と「思い」の火を消してはならない。
 8月の暑さの中には、彼等の魂の声が溶け込んでいるようである。


hajime |MAILHomePage

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