思考過多の記録
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昨日の夜のことだ。混雑した電車に僕は乗っていた。一番前の車両の一番前のドアにへばりつくように立っていた。それはいつものことだった。 乗換駅で僕は電車から降りた。すると、同じく車両から押し出されたように、僕のすぐ隣に一人の女性が降りてきた。勿論、その後ろからもたくさんの人が降りてくる。 ふと手元を見ると、何ということだろうか。僕の通勤用の鞄のふたを閉めているジッパーの留め金に、その女性のニットの手提げ袋がからまっていたのだ。つまり、その女性は後ろの人に押されて降りたというよりも、僕が降りたので降りざるを得なかったのである。
何かの弾みで、ただ一点で絡まってしまったニットは、なかなか外れてはくれなかった。ラッシュの人混みの中、僕とその女性は奮闘した。 見も知らない男が、比較的早い時間にしては既に酔ったような口調で、僕達のすぐ側でこう言った。 「これは、運命の赤い糸ですね。」 随分長い時間のように思えたが、おそらく絡まったときと同じく何かの弾みで、僕と彼女の鞄は離れた。同時に、発車のベルは鳴り終わり、電車のドアは閉まった。 僕達は、そこで初めてお互いの顔を見合い、会釈を交わした。眼鏡をかけた小柄な女性だった。彼女はそのままその場に立っていた。彼女にとって、そこはただの途中駅に過ぎなかったのだった。悪いことをした、と僕は思った。しかし、何のフォローも出来ないまま、僕はその場を後にした。
こんな場面は、B級のテレビドラマにしかないかと思っていた。 これがきっかけで恋が芽生え、そこからドラマが展開するという、大昔からあったパターンである。「電車男」も基本的にはそれだ。最近よく見ている寅さんだったら、これをきっかけに相手が「マドンナ」になるのかも知れない。そういうとき、その出会いは「運命」だと思われる。 しかし、僕と彼女の場合、それは単なる「偶然」に過ぎない。「運命」と「偶然」の違いをずっと考えていたことがあった。そして、結局「運命」とは、単なる「思い込み」に過ぎないのではないかという結論に達した。つまりは、「解釈」の問題である。僕とその女性がその日、同じ電車の同じ場所に乗ったこと、そして彼女がニットの手提げを持っていたこと、そして僕のすぐ隣に乗車したこと、それらは全て「偶然」の産物である。そこに何らかの「必然性」を読み取りたいという意思だけが、それを「運命」に変えるのだ。そこに神様の出番はない。 事実、僕はそうやっていくつもの「運命」を感じ、いくつもの「赤い糸」を見た。しかし、「糸」と見えたものは、実は「意図」だったのである。 そして、僕は誰とも結び付かなかった。
今日、僕と同じ課の若手の女性が入籍した。 エレガントで可愛らしく、密かに憧れを抱いた男は多かったに違いない。困った副産物として、彼女は社内でセクハラにあったことすらある。 そんな彼女だが、少しも浮かれることなく、「結婚するなんて思わなかった」といいながら、極めて平常心のまま、出会って数ヶ月で入籍に至った。彼女はそんな言葉は使っていないのだが、もしかすると彼女のケースは「運命」に近いのかも知れない。 いや、そうではなく、単に「偶然」をきっかけに事態が流れるように動いていっただけなのかも知れない。いわば「偶然」という機会が(良きにつけ悪しきにつけ)何らかの結果につながったとき、それが「運命」と呼ばれるようになるのだろう。
どんな「偶然」が結果を生むのか、それもまた「偶然」の産物だろう。となれば、僕にはもうどうすることもできない。人はどうあがいても、後ろ向きにしか事態を把握できない。そして、時間は前向きにしか進まないものだ。 手に掴んだわらしべが長者への切符だとは限らないのである。わらしべは、ずっとわらしべのままかも知れない。いやらしいのは、「運命」を待ちわびる自分の心である。棚からぼた餅が落ちてきはしないかと、ずっと棚の下で上を見上げながら待っている。しかし、案外全く別の場所に宝物が眠っているかも知れないのである。
そうして月日は流れたが、B級のドラマすらまだ始まってはいない。
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