思考過多の記録
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2006年02月05日(日) 守ろうとしているものは?

 皇室典範の改正問題が俄に喧しくなってきた。改正に反対する人々の鼻息は荒い。彼等の主張はわかりやすく、一貫している。
 曰く、「男系の家系を維持してきたのは世界的に見ても日本の天皇制をおいて他にはなく、この日本古来の伝統を何としても維持していかなければならない。」彼等にとって、天皇家が「男系」で貫かれてきたことこそが、天皇家の価値なのである。逆に言えば、ここに女の血が混じってしまうと「男系」が途絶え、天皇家の価値が失われてしまう。それを阻止したいということのようだ。
 あろうことか皇族の一員である三笠宮?仁という人物までもが、皇室典範反対を公然と唱え始めた。天皇家の問題は「文化」の問題であり、政治的な論議には馴染まないという話もあるが、彼の行動は思い切り政治的である。勿論、現行憲法下の皇族のあり方とはかけ離れている。まさになりもふりも構っていられないという状態なのだ。



 なぜそうまでして、彼等は「日本の伝統」とやらを守ろうとしているのか。
 「女系」では天皇家の価値がないというのは、「女性」という性を低く見る考え方に他ならない。今どきこんな考え方が残っていたこと自体が驚きだが、それを必死に支持しようとする現代の化石のような人達がいるのも事実だ。
 自分の性が否定されているにもかかわらず、「良識ある識者」の一人として反対派の論陣に加わっている‘勘違いおばさん’の櫻井よしこは、

「今更指摘するまでもなく、天皇を戴く皇室の姿こそは、まさに日本の歴史であり、日本人の歴史観、国家観を反映したものである。」

という意味不明で思いこみたっぷりの文章の後、こう主張を展開する。

「現代の価値観からみて、理屈で説明しにくいことは少なくない。(中略)だが、現代の価値基準で論評したり、批判するのは当たらない。大事なのは、幾百世代もの先人たちが、それを是としたことである。それは各々の時代に生きた日本人の価値判断であり、心の積み重ねだからだ。万世一系や男系天皇制を貫くための努力と工夫の全てが日本人の祖先の心が形になったものであり、それらは日本文明の中心軸を成してきた価値観なのだ。
 先人の心を知れば、皇室が日本の歴史観を体現していることも、皇室を論ずるのに、歴史観や国家観を顧みないことの愚も、自ずと明らかである。」



 識者面している割には、この文章には内容も論理もない。昔の人々が‘是’としたことに対して、現代の我々がその内容を検討し、再考や批判を加えてはいけないのだろうか。伝統とは、誰も手を加えたりできず、ただただ有り難く押し頂いて形を変えないように細心の注意を払いながら後世へと継承していくしかないものなのだろうか。
 もし櫻井氏が本気でこう考えているのなら、それは「ジャーナリスト」という自らの職業の否定である。即刻辞めてもらいたい。
 天皇制は文化的な存在=評論・批判の対象にしてはならないという考え方も、これと同じことである。天皇が純粋に文化的な存在などではなかったことは、それこそ歴史を紐解いてみればすぐに分かることだ。同様に、反対派が唱えるy「天皇家は万世一系」というのもフィクションであることもすぐに判明する。
 こうなると、ありもしないことや根拠に乏しいことを伝統というのかと揶揄したくもなる。



 反対派は、女系が続くと元々の天皇家の「血」が薄まり、ついにはなくなってしまうことを危惧しているようだ。それが日本人の民族性や国家像をも変えてしまうということらしい。
 しかし、一般の国民からすれば、それが何ほどのことなのかと思う。すでに天皇制は形だけのものになっていると僕は思う。別に天皇家がなくなっても、日本がなくなりはしない。日本人の精神性の根本に天皇制があったのは、もはや遠い昔だ。いや、もっといえば、「日本」という名の国家がなくなったとしても僕達の生活はなくならないのだ。確かに文化的な側面は強いとしても、所詮国家などというものは単なる「入れ物」に過ぎないというのが僕の考えである。
 「天皇」もまた然りだ。そこに閉じこめられている人々を、早く「入れ物」から出してあげる算段をする方が、よほど人間的というものである。



 「血」「国家」「民族」という実態のないものにすがり、それを死守することに心血を注ぐことで、いったい何が得られるのだろうか。確かにそれらは人間を魅了するけれど、よく考えてみると僕達個人とは何の関係もない。
 平沼赳夫衆議院議員は「命をかけても守らなければならない!」と力んでいたが、もし国会で皇室典範の改正案が成立したら本当に切腹でもする気なのだろうか。たぶんしないだろう。所詮はそんなものである。
 かつてこの国が起こした戦争は、表面上はそうしたものを守るためという名目だった。しかし、本当の目的は別のところ(植民地での権益の獲得)にあったわけである。純粋にそれを信じて命を落とした者達は貧乏くじを引かされた。
 僕達が歴史に学ぶとすれば、フィクションに踊らされるな、ということだった筈である。そうしたことを顧みずに無闇に「伝統」を振りかざすことの愚は、自ずと明らかではないかと思うのだが。


hajime |MAILHomePage

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