思考過多の記録
DiaryINDEXpastwill


2006年02月11日(土) 「子宮」が維持する天皇制〜「おめでたい」懐妊〜

 皇室典範の改正問題について書いたら、今週、秋篠宮妃の紀子さんの懐妊が発表された。その影響で、今国会での改正を主導していた小泉首相が事実上その方針を転換したことで、この問題は一種の「休戦」状態となっている。いわば、問題が先送りされた形だ。あまりのタイミングの良さは、何か意図があるのではないかと思われるほどだ。
 この問題を政治問題化するべきではないという声も聞かれたが、そう言っている人達自身が思いきり政治問題化しており、小泉首相の求心力の低下も言われている。



 これでスポットライトが東宮家から秋篠宮家へ、すなわち雅子さんから紀子さんへ移った。雅子さんがプレッシャーから解放されていいという声もある。しかし、より本質的な問題は、そもそも「懐妊」でこれほど扱いが変わるということの方ではないだろうか。
 確かに、子供を宿し、生むことができるのは女性だけである。その子供が、次の世代を形成するわけだし、「家」を継ぐ者として扱われる。だから、女は子供を産めてなんぼ、それも男だったらなおよい、というのが伝統的な女性の立場だったわけだ。今毛嫌いされている言葉を使えば、それこそが「ジェンダー」であり、女性は長いことこのジェンダーの呪縛に絡め取られていたのだ。「男は外・女は内」という考え方をはじめ、女性に不自由を強いてきた制度の大元は、この「産み、育てる性」という枠組みだったのである。こういうことは女性学の教科書では基本中の基本であり、当然みんな分かっているものと思っていた。
 しかし、一連の皇室の騒動を見ていると、どうやらそうではないらしいと思えるのである。



 女が「産み、育てる性」としてのみ価値があるのなら、裏を返せば産めない女に(女としての、そして人間としての)価値はないということだ。極端な言い方に聞こえるかも知れないが、今回の問題に対する、とりわけ改正反対論者の主張を聞いていると、根底にこの考え方が横たわっているのではないかと思われてならない。
 それは、「男系を貫いてきたからこそ、価値がある」という考え方と根っこは同じだ。要は、女は男の家系の「血」を維持するためだけに、ひたすら跡を継ぐ者(それも、できるだけ男)を産み続けろということなのである。「女の腹は借り腹」というわけだ。女の側からすれば、これ程理不尽で不条理な話はないのではないか。
 こうした扱いを受け続けた女達の中から、多くの人々が立ち上がり、精神面・制度面の両方においてその変革を目指して戦ってきた歴史が実際にあった。それが今日の社会で曲がりなりにも「男女同権」が建前として成立する土台になっていることは論を待たない。今や、男性と女性に価値の高低の違いはないというのが常識である、筈だ。
 そして、いまだにそれを認めたくないという人達が(男女を問わずに)少なからずいるというのもまた、事実である。



 彼等は、無意識のうちに雅子さんと紀子さんを天秤にかけた。ここまでは、「長男の嫁」である雅子さんの方が「上」であり、だからこそ「世継ぎ」を産む「腹」を期待されていたのである。しかし、懐妊が分かった今、その「腹」は紀子さんに期待され、彼等の中では価値が逆転し、紀子さんが「上」になった。彼等が慇懃無礼に述べる慶事の言葉の裏には、こうした打算が透けて見える。
 もしも紀子さんが産むのが男であるなら、それは「男系」を継ぐ者となり、紀子さんの株はますます上がる。しかし、もしも女だったら、世継ぎを産めなかった彼女の価値は一気に下がる。改正反対論者達は、やはり慇懃無礼に寿ぎの言葉を述べるだろうが、内心の落胆は隠さないだろう。
 そして、再び天秤は動き、雅子さんの「腹」の価値が上がるというわけだ。何故なら、雅子さんは直系の長男の嫁なのだから。



 皇室の伝統の維持を叫ぶ者達にとって、畢竟女は「腹」である。もっとあからさまに言えば「子宮」である。その子宮に何が宿るか(または宿す力があるか)によって、彼等は女の価値を決める。このグロテスクな構造は、勿論皇室に限ったことではなく、いまでもとりわけ地方などでは根強く生き残っていることだろう。それがあからさまに見えているのが天皇家である。
 皇太子妃などといかにも高貴な立場のように扱われていても、結局は一つの子宮として存在しているにすぎない。それ以上の役割を、皇室に入ってきた女性は期待されていないのである。これまでの雅子さんの扱われ方を見ていると、それがよく分かる。誰も彼女に皇室外交など望んでいなかった。そんな暇があったら、子作りのために夜ごとまぐわえ、というわけである。



 もし、女性を子宮としてしか扱わない今の形でしか天皇家が存在できないのだとすれば、またそうしなければ天皇制が維持できないのだとすれば、そんな天皇制の犠牲者をこれ以上出さないためにも、もはや制度そのものを終わらせるべきだ。「国のありように関わる」などという声もあるが、天皇制がなくなっても国政に直接の影響はない。天皇家が文化に直接貢献したのは、もはや歴史の話である。つまり、天皇家も、天皇制もその役割は殆ど終わっていると言っていいのだ。そんなもののために、一人の人間(=女性)が犠牲になる価値などない。
 随分前にも書いたと思うが、もしも天皇家の人々に人間らしく生きてもらおうと願うなら、「天皇制」という枠を一日も早く取り払ってあげることだ。断言してもいいが、雅子さんは外務省にいた方がずっと人間的で、彼女にとっていい人生を歩めた。国にも貢献できた。それを潰したのは「天皇制」なのである。天皇制を守ろうという立場の人々は、この現実をどう考えるのだろうか。紀子さんにしても事情は同じことである。



 生まれてくる命に罪はない。天皇家の子だというだけで、男だったら歓待され、女だったら失望に迎えられる。それもまた悲劇ではないか。誰にとっても不幸なこの制度は、一体誰のためにあって、何のために守られ、継承されていかなければならないというのだろうか。


hajime |MAILHomePage

My追加