思考過多の記録
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2006年03月09日(木) 「競技者」(アスリート)から「表現者」(アーティスト)へ〜ヴィーナスの誕生〜

 トリノオリンピックが終わって2週間近くたったが、「荒川静香」フィーバーの余韻はまだ列島を覆っている。何しろ、日本に唯一もたらされたメダル、しかも色は「金」である。ただでさえ騒ぎになるところを、今回はまさに「集中攻撃」といった感じだろうか。他に話題を持っていくとするとカーリング女子しかないという状況だが、むこうはメダルを持っていない上に、5人いるのでどうしても話題は分散する。いきおい、荒川が目立つというわけだ。



 いつもならこのフィーバーをうざったく思う僕だが、今回は何故か違う。勿論、マスコミのはしゃぎ振りなどはいつも通りうざく、食傷気味の感もあるが、こと荒川の滑りそれ自体に関しては、僕は素直に感動した。
 僕は、たまたま荒川が金メダルを決めたフリーの演技を生放送で見た。見ようと思ってはいなかったし、メダルの行方に特に興味もなかった。しかし、朝の出がけだったにもかかわらず、思わず見入ってしまうような滑りだった。「銀盤の女王」という言い古された称号があるが、そういう言葉とも違う、何か凛とした感じの「美しさ」がそこにはあった。オーラというものがあるとすると、彼女のあのときの滑りには、人々を惹きつけるそれが確実に出ていた。それが画面からもはっきりと分かったのだった。たぶん、あれを見た者は誰一人として、彼女のメダルの色に文句はないだろう。たとえ他の選手がノーミスでも結果は同じだったと思う。



 あの大舞台で、彼女は笑顔で滑っていた。客に媚びを売るための作り笑顔ではなく、心からの笑顔なのだと僕には分かった。そして、受賞後のインタビューなどから、本当にそうだったと分かった。
 彼女は、メダルを狙ったのではなく、最高の滑り(=演技)をすること、そして楽しんで滑ることだけを考えたと、繰り返し語っていた。「無欲なところがよかったんですね」と、殆どのインタビュアーはそれを金メダル獲得の大きな要因として捉えて、判で押したようなコメントをした。しかし、僕が凄いと思い、感動したのは、結果に対してではない。本当に「楽しんで」滑り、それを「最高の滑り」にしてしまった彼女に対してなのだ。それは、それまでのスランプを乗り越えてよくぞ!という日本人が大好きな浪花節的な感情とも違うものだった。



 どの世界でもアマチュアとプロの違いとしてよく言われることだが、アマチュアは基本的に技術や結果よりも、自分がやりたいことを楽しむのを最優先にしている。それに対してプロは、クライアント(客)が求める結果を出すことが最優先、というよりも最低条件だ。その活動によって報酬を得ているかどうかが分かれ目になっているわけだ。
 オリンピックのアスリートは「アマチュア」に分類されるけれど、それは単にその競技によって報酬を得ていないというだけであり、実質的には「結果」を出すこと(スポンサーや国民が望むような)が求められている。だから、その競技への取り組みは、自分が楽しめるかどうかを重要視することは許されないだろう。その意味においては、オリンピックなどの国際試合に出場するアスリートは、スタンスとしては「プロ」に近い。その競技が「好き」なだけでは許されないのである。



 荒川は、当然このようなスタンスでこれまでリンクに立ってきたのだと思う。常に結果を求められる立場なので、当然練習は過酷を極めただろう。しかし、「最終目標」ともいえる大舞台に立って彼女が目指したのは、メダルの色や順位ではなかった。
「少しでも長く見ていたいと思われる滑りをしたい。」
そう彼女は語った。
 そして、事実彼女の滑りはそうなっていた。なおかつ、それを彼女は「楽しんだ」。それはおそらく、他人から求められる結果のためではなく、自分が求める滑りのために滑ったからであっただろう。しかも、ここからが重要なのだが、彼女が自分自身楽しみながらも結果を手にできたのは、やはりそれを裏打ちするだけの高い技術と、ジャンプの回転数をその場で変えられる冷静な判断力を持っていたからに他ならない。つまり、彼女は、所謂アマチュアスケーターが感じるのとは全く別の次元の「楽しさ」に到達していたのだ。そこに達することができた者のみが、自分と観客を同時に楽しませるという奇跡ともいえる状態に達することができる。
 このあたりが、目立ちたがりの勢いだけで、技術的にはまだまだ未熟だったスノーボードHPの成田童夢あたりとは全く違う点だ。



 勿論これは、フィギュアスケートの特殊性、すなわち、競技であり、ショーであるが故に、技術力と芸術性の両方を追求できるという側面に由来している。僕が彼女に、高橋尚子のようなある種の「あざとさ」を感じないのは、もともと「見せる競技」だからなのと、荒川のクールさのせいかも知れない。
 しかし、もうひとつ言わせてもらうと、大変不遜ではあるが、「表現」を追求する者としてのシンパシーを感じてしまうからでもある。自らの「表現」を突き詰めていこうとする彼女の姿勢には、本当に学ぶことが多い。そして、それをあの大舞台で結実させたことに対して、僕は感動してしまったのである。



 彼女の夢はアイスショーで滑ることだそうである。名実ともに「競技者」(アスリート)から「表現者」(アーティスト)への転身を望んでいるのだろう。それはきっと、彼女の滑りを、技術による評価を上げる方向ではなく、純粋に「表現」「エンターテインメント」として充実させる方向に突き詰めていけると、彼女が判断しているからだと思う。
 それは正しい方向だと思うし、あまり遠くない時期に彼女はそうなるに違いない。
 そして、烏滸がましいが、僕自身「アマチュア」の表現者の端くれとして、いろいろな意味で示唆をもらうことができた。その意味では、彼女と彼女の滑りに感謝したいと思う。



 よくメダリストは「国民に夢と勇気を与えた」などと言われ、今回もそんなコメントを腐るほど聞いた。しかし、彼女に関してはそれはやや的はずれな表現だと思う。
 僕達はただ、氷上のヴィーナスが生まれ出る瞬間に立ち会えたのだ。その至福の時を荒川本人と共有できた。それだけでもう十分である。


hajime |MAILHomePage

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