思考過多の記録
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2006年04月08日(土) 健全なナショナリズム〜イチローの罪〜

 少し前のことだが、WBCで日本が優勝する過程で、「イチローの様変わり」が話題になった。これまでは感情をめったに表に出さず、クールという印象が強かった彼が、一転して感情を高ぶらせ、子供のようにはしゃぎ回り、「熱い男」のように振る舞った。多くのメディアからこの質問を受けた彼の答えは、
「『日の丸』を背負ってやったことがこれまでなかった。」
という趣旨のことだった。つまり、「日の丸」=「日本という国」を代表しているという思いが、彼をこれまでになく興奮させ、奮い立たせたようなのである。
 勿論、大リーガーとして何シーズンも過ごしてきたイチローにとって、久々の日本人だけのチームということもあって、気心が知れ、気持ちが高ぶったということもあるだろう。異国の地で、普段どれほどのプレッシャーの中で彼が戦っているかということの証左でもある。
 しかし、マスコミの取り上げ方は殆どが「イチローの愛国心」というものだった。本人もそれを否定していない。「日の丸」が彼を興奮させた。そして、韓国に対して「戦った相手が“向こう30年は日本に手は出せないな”という感じで勝ちたいと思う」という‘妄言’を吐かせたのだった。



 「日本の野球が世界の頂点に立ったことを誇らしく思う」という趣旨の彼の発言と、こうした彼の言動と「優勝」に酔いしれる形で巷に氾濫した「日本人として誇りに思う」という一般の人々の発言。マスメディアはこれを称して、
「久し振りに日本人に元気を与えた。」
「健全なナショナリズム」
と持て囃したものだ。折しも経済は(少なくとも表向きは)上り調子。冬季五輪の惨敗や、耐震偽装問題等の暗い話題の中で鬱積してきたものを晴らすかのように、世論はこのイチローの‘気分’を熱烈に支持したのだった。
 しかし冷静に考えれば、これまでサッカーや野球のオリンピック代表に見られる「○○ジャパン」というチームの場合と同様、勝ったのはその「チーム」であり、素晴らしかったのは個々の選手の力とチームワークなのであって、その強さと「日の丸」は、基本的には関係ない。ましてや、それを見ている一般の国民が、同じ日本人として喜ぶまではまあ分かるが、日本という「国」に誇りを持ったり、何か自分達まで「日本人として」自信を持ってしまったりするに至ると、もはや滑稽ですらある。



 ところが、マスメディアはそれがあたかも普遍的な事実であるかのごとく伝えた。「日の丸」と「この国」とこの国に住む人々を、「日本」という等号で何の躊躇もなく、無邪気に結んで見せたのである。
 「日本のチームが韓国のチームに勝った」ことが、「日本という国が韓国(朝鮮)という国に勝った」ことになってしまう。それを「凄く気持ちいい」という興奮気味のイチローのクローズアップが裏打ちするというわけである。あのイチローがあんなに喜んでいるんだから、「日本」が勝つことは間違いなく喜ばしく、凄いことなのだ。一般の人々の無意識にそれがインプリントされた。その点では、自民党の政治家が脂ぎった顔で「愛国心」を説くよりもはるかに大きな効果があったわけで、その意味でイチローの罪は重いと僕は思う。
 もともとスポーツマンは「日の丸」に弱い傾向があるが、彼もまた正しい「スポーツマン精神」の持ち主だったというわけだ。



 「健全なナショナリズム」などというものがあったためしはない。それはまるで「正しい犯罪」といっているようなものだ。世界には異なる文化や歴史を持ったたくさんの人種・民族が存在・混在し、多くの「国」がある。そのことだけ考えても、ナショナリズムが如何に不健全なものであるかが分かるだろう。
 ただし、困ったことに、人間は健全な環境では生きていけないのである。宗教だけではなく、ナショナリズムもまた人民のアヘンなのだ。そして近年、その依存症はますます酷くなりつつある。
 警戒すべきは「偏狭なナショナリズム」であると、知識人やリベラルといわれるマスメディアはよく言っているが、そんな警鐘はアリバイ作りのために鳴らされているに過ぎない。何故なら、偏狭でないナショナリズムなどあり得ないからだ。そんな当たり前のことの忘れてしまってはしゃぎ回るこの国の人々は、よく言えばあまりにも無垢、有り体に言えば救いようのない無知である。



 「このWBCを通じて、日本人は久し振りに一体感を味わったということではないか」
と無邪気なメディアはしたり顔で解説し、日本人自身もそんな気になっている。まさにそこが「ナショナリズム」の落とし穴だ。「日の丸」を掲げ、その元にいる自分達に恍惚となるとき、常にそこから排除される人々がいるということを忘れてはいけない。
 例えば、在日の様々な国・民族の人々は「日の丸」を共有できない。ましてや、かつて「日の丸」に支配された歴史を持つ中国・朝鮮の人々が、このナショナリズムの気分を共有することは難しいだろう。勿論、日本人の中にだって、僕のようにこの気持ちの悪い雰囲気を好きになれない人々はいる。
 問題は、「日の丸」にはしゃぐ無垢にして無知な人々が、こうした謂わば「少数派」を攻撃してくることである。「日の丸」=「日本という国」と一体化していると信じる「多数派」の彼等は、「日の丸」を認めない人間を認めない傾向が強い。政治の反動化と相まって、近年この傾向はますます顕著になってきている。つい今日も、北海道のある市では、入学式で教職員が「君が代」斉唱に抗議して着席するのを防ぐために、会場に教職員の椅子自体を置かなかったという報道があった。因みに、出席している保護者には「起立」を促すアナウンスがあり、全員がそれに従ったという。
 「日の丸」「君が代」の前には良心や信条の自由はない。異なるものを排除する。これが「健全なナショナリズム」の正体なのだ。寛容さがますます失われているこの国の社会にあっては、ナショナリズムはまさしく凶器=狂気そのものである。



 イチローは、野球選手としては優秀である。なにも「日の丸」など背負わなくても、彼は超一流だし、力もある。同じ日本人として応援したいという人もたくさんいるだろう。彼のプレーは僕達を楽しませ、力を与えてくれるかも知れない。でも、日本人を鼓舞するためや、「日の丸」に箔を付けるために彼はプレーしているわけではあるまい。
 いや、もしかすると今回のことで、彼の中にそういう「愛国者」としての意識が芽生えてきているのかも知れない。その意味では、彼の中にひとつの不気味な「怪物(エイリアン)」が生まれたということだろう。
 感情に身を任せることは心地よく、大きなものとの一体化することは安心感と高揚感を与えてくれる。まさに麻薬だ。イチローがエイリアンの吐き出すこの麻薬の中毒患者にならないことを祈るばかりだ。



 そしてこの国では、人々の病状はもはや手遅れである。


hajime |MAILHomePage

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