思考過多の記録
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2006年04月23日(日) |
生きてきた彼女、生きていく僕達 |
それは、前日までとは打ってかわって、冷たい北風が吹きすさぶ、よく晴れた日だった。僕の後輩が久々に僕の家まで車でやってきた。彼と芝居を作っていたのは、今から10年以上も前のことだが、その頃彼は稽古帰りによく僕を家まで送ってくれていたものである。 その頃と車は変わった。また、彼は結婚して2人の子持ちである。前日に彼の家に電話して背後にまだ小さい彼の子供の声を聞いたとき、時の流れを嫌でも感じさせられた。そしてその日、車から降りてきた彼は、喪服に身を包んでいた。時の流れの中でいなくなってしまった人のもとへ、僕と彼は向かおうとしていたのだった。
僕と彼女は、僕の実家の近くを走る私鉄の、ある駅の側にあるファミレスで待ち合わせをして、いろいろ話をしていた。3年前にやった『レコンキスタ』という芝居の立ち上げのための打ち合わせもそこでやったのだった。僕は実家から彼女の待つファミレスへ向かうために、何度か車を走らせた。 それと同じ道をたどって、彼女の不在を確かめるために、僕と後輩は車を走らせていた。いったん彼女の家の近くを通過して、僕達は少し離れたJRの駅に行った。そこで、一緒に彼女の家に行く人達と合流した。 みな、一様に喪服または地味な服を着ている。バイト先から駆けつけたという後輩が、大きな花を用意してくれていた。かなり遠くから高速道路をとばしてきた後輩もいる。
10年以上前、僕が書いた『明るい反抗』という芝居で彼女と共演、またはスタッフとして関わっていた懐かしいメンバーが僕を入れて5人。そのうち1人を除いて全員同じ高校の演劇部員だった。演劇部時代にそれぞれ彼女と一緒に芝居を作ったりその活動に関わったりした期間を持っている。今では全員が結婚して家庭を持ち、住んでいる場所も仕事もバラバラだ。 さらに後から合流してきたのは、『レコンキスタ』の出演者として彼女が僕に紹介してくれた劇団(ユニット)を主宰する女性と、その劇団の公演で彼女と共演したことのある男性。この人と僕は初対面である。また、主宰の女性とは、今年の初めに芝居を巡って行き違いがあり、何となく疎遠になっていた。 「きっと、彼女が会わせてくれたんだよね」 と誰かが言った。月並みな台詞なのだが、確かにそんなこともあるかも知れないと思ってしまう。 なかなか会えないかつての仲間が集うのは、たいていがイベントの時だ。しかし、今回は「結婚」などのめでたいイベントでないのが悲しい。
夕方になって、風はさらに冷たくなった。日が落ちる頃、僕達は彼女の実家に到着した。ファミレスで会った後、何回か彼女を車で送ってきたことのある場所だ。 ご両親と妹さん、そして従兄弟の方と大人しい犬が僕達を迎えてくれた。 玄関を入って廊下を進んだ突き当たりの居間に隣接した部屋に、まず僕達は案内された。 そこに、たくさんの花に囲まれて、彼女の遺影と、彼女の骨の入った白木の箱がおかれた、簡単な祭壇があった。その前には、線香立てと線香、鐘と数珠が置かれていた。
「どうぞ」 とまず年長者である僕が勧められて、彼女の遺影と向き合って座った。 まるでこちらに笑いかけているような写真が目の前にあった。しかし、それと彼女の「死」とが、どうしても僕の中では結び付かなかった。彼女は、たまたまそこにいないだけなのではないか。線香をあげながらも、僕にはそう思えて仕方がなかった。 線香に火を付け、鐘を鳴らし、手を合わせても、それが彼女と関係のある行為だということが、どうしても自分の中に落ちてこなかったのだ。 悲しいという思いも、寂しいという思いも、悔しいという思いも、僕にはわいてこなかった。ただ、何とも言葉に表すことのできない、言いようもない「気分」が僕を支配していた。 みんなは、僕に女性陣は、目に涙を溜め、すすり泣き状態になっていた。僕も泣いてしまうかも知れないと思っていたのだが、とにかくその状況がよくのみこめず、涙は出なかった。
僕達は居間に通された。彼女の家の方が、食事と飲み物を用意してくださっていた。 こういう突然の「死」の場合、残された肉親の反応は大きく分けると二つあると思う。すなわち、故人の生前の写真等の記録は、見ると辛くなるので一切見たくないとして避ける場合と、永遠にいなくなってしまった故人に「会える」方法として、こうしたものを積極的に見ようとする場合である。彼女のご家族は後者の方だった。 彼女が、生前彼女の妹さんのために選曲して編集したというMDをBGMに流し、彼女の生前の演技を記録したビデオを僕達に見せてくれた。そのうちの1本は、例の『明るい反抗』の本番の記録だった。2時間半にも及ぶ長大な舞台の中で、彼女の父親が選んだ場面は、僕と彼女が掛け合うシーンだった。もともとはそうなるはずではなかったのだが、ハプニングのため彼女が「代役」として急遽演じたシーンである。そして、ラストシーン。そこにいたメンバーのうち3人が、彼女と一緒に映っていた。 とにかく、みんな若かった。勿論、彼女もそうだった。
引き続いて、彼女が数年の社会人生活を経て再び演劇の世界に復帰した、山の手事情社という劇団の養成所時代の研究生発表会のビデオ、そしてその後に入ったP.A.I.という主にコンテンポラリーダンスを主体とする表現活動をする団体に入り、そこでの発表会公演の様子を記録したビデオを見せていただいた。 この頃になると、その表現方法は独特なものになり、ご両親には理解できない方向になっていたようだ。しかしそれは、彼女が自分自身の求める表現をさらに深く模索し始めていたことを意味している。実際にこれを見ていない後輩がしみじみと、 「ちゃんと‘女優’の顔になってるもんなあ。凄いよな」 と言った。 「明るい反抗」から流れた年月が彼女を変えていた。それを、その場にいた誰もがはっきりと確認できたに違いない。 また僕達は、彼女がP.A.I.の個人発表会向けに書いた作品が、ある雑誌に載ったものを見せていただいた。そこには、決してストレートではないけれど、彼女の思いが言葉になって残されていた。中には、まるで彼女がこうなることが分かっていたのではないかと思われるような作品もあり、何ともいえない気持ちになった。
それから、僕達は彼女の思い出話に花を咲かせた。 その日の顔ぶれの中で、僕は比較的彼女と接していた時間が長い方で、それだけエピソードもたくさん持っていた。勿論、他の人達もそれぞれが彼女との思い出やエピソードを持っている。その多くが、みんなが笑い転げてしまうような話で、いったいその場が何なのか分からない程盛り上がった。彼女のご家族も、懐かしむように、慈しむように、ときには少し苦笑も混ぜながら、僕達の話を聞いていた。時折一段と高く笑う彼女の妹さんの声が、急に彼女自身の声に聞こえることが何度かあって、僕はその度にどきりとした。 話せば話すほど彼女の「生き様」がくっきりと浮かび上がり、確かに彼女が生きていたということの証しがそこにあるような気がした。そう、あのとき僕達は、みんなで彼女の進んできた轍、もしくは航跡を探しながら、それを辿っていたのだ。話している間は、彼女が側にいて、去っていかないような気がしていた。そう思って、僕は話し続けた。 「みなさんの話を伺っていると、娘は本当にみなさんと楽しい時間を過ごしていたんだなと分かってよかったです」 僕達の話をひとしきり聞いた後、彼女の母親が言った。 「一つのことに打ち込めて、充実した、中身の濃い人生を送ったって言ってました」 と彼女の父親がしみじみと付け加えた。 その言葉は、僕が彼女からもらった最後のメールに書かれていた言葉だった。
僕が彼女から最後のメールをもらったのは、彼女の死の10日くらい前だと、そう思っていた。しかし、彼女の家に行く前日にもう一度メールを開いてみたら、まさに死の前日の夕方から夜にかけてのものだった。彼女は、そのメールの翌日の午前中に様態が急変し、午後には死亡が確認されたというから、ほぼ半日から1日前にやりとりをしていたということになる。 文字通り、それは彼女からの最後のメッセージだったのだ。第1信で彼女は、 「演劇部に入ったことは、私にとって人生の大転換期です。常に何かに情熱を傾け続けてこられたことを、本当に充実した幸せな人生だったなあと思います」 と書いた上で、僕に対しては、 「仕事と演劇の両立は本当に大変だと思いますが、また『明るい反抗』のような観る人の心を揺さぶるような名作を生み出すべく、頑張って続けていって下さいね。」 という言葉をくれている。「明るい反抗」以来、僕は何本も脚本を書いて上演しているわけだが、そのどれもが彼女の心には響いていなかったのかなと思うと、少し寂しい気もする。彼女が外出できなくなってからの芝居は当然見てもらってないので、彼女がどんな感想を持つのか聞いてみたかったのだが、それは結局叶わなかった。 2信目で彼女は、「演劇部時代で思い出すことは」として、部活の日常の何気ない光景に関して触れている。そして、最後となる3信目で、僕が毎年公演を打つようになったことを喜び、『明るい反抗』のときの自分を振り返り、「役不足で申し訳ありませんでした」と書いています。それに続いて、 「では、体に気をつけながら頑張って下さい。」 という言葉でメールは終わっている。僕はこのメールに対して返信したが、それに対する彼女からの返信はなかった。 よく読むと、3つのメールには殆ど「過去」のことしか書かれていない。彼女には珍しいことだ。既に彼女は、この時点で自分の命の終わりを悟っていたのかも知れない。
夕方集合したJRの駅に戻った僕達は、またそれぞれの日常に帰って行った。 帰り際、後輩が持っていたという彼女の高校時代の写真を、みんなにカラーコピーして渡してくれた。 僕達には明日という日がある。しかし、映像や写真の中の彼女の時間は、そこで止まったままだ。彼女に明日という日は、永遠にやってこない。 彼女の遺影と対面した前日、僕は誕生日を迎えた。僕は生き延びた。彼女の死を知った後に迎えた誕生日は、とても不思議な日に感じられたのだ。自分が生きているというごく当たり前に感じられることが、実は奇跡的なことなのだと、だからこそ生き延びた日々を自分や周りのために大切に使っていかなければならないのだと、彼女は教えてくれたのだと思う。
彼女の死を知らされてから間もなく2週間、彼女の実家を訪れてから1週間が経った。これまで経験したことにないような、長く、重い時間だった。 前に読んだ本の中に、「衝撃的な出来事は、‘記憶’や‘歴史’として記録され、回収されることができない。それは、まさに生々しい‘出来事’なのだ」という趣旨のことが書いてあったのを思い出す。僕にとって彼女の死は、いまだに整理できず、まさに‘出来事’としか言い様のないものとしてある。それを言い表す言葉を、僕は持っていない。 あの日のことを表面的にでも書き記すのに、僕は1週間の時間を費やした。その間に、彼女の魂は、僕達の世界からさらに遠ざかっているのだろう。そして結局、僕は彼女の死を的確に語る言葉を持たずに終わるに違いない。一人の人間の生命が終わること。それに完全に対応し、拮抗する言葉など、所詮生きている人間には生み出すことなどできないのだから。 ただ僕は、彼女との‘約束’を果たそうと思う。「観る人の心を揺さぶるような名作を生み出すべく」、何があっても頑張り続けようと、僕は決心した。それが、演劇的な‘同志’でもあった彼女との最後の、そして永遠の‘約束’なのである。そして、彼女の墓前にいい知らせを報告することが、僕の目標である。 時間を止める暇はない。 桜の満開を待たずに、彼女の命は散っていった。そして、その桜も散り、春の嵐が吹き荒れる。春の嵐に八重桜の花が落ちる。 季節は移ろっていく。
今日、彼女の実家から、花とお供え物のお返しが届いた。 そこに添えられた彼女の母親の手紙の筆跡に、僕はまたしても明らかな彼女の残像を見た。
もう跡形もないけれど、確かに、彼女はこの世界に存在していた。彼女は、常に姿を確認できなかったけれど、確かに僕達の人生と伴走し、僕達と同じ時間を生きていたのだった。
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