思考過多の記録
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2006年09月04日(月) |
彼女の悲鳴が聞こえてくる |
先週末、友人と2人で久し振りにこの春亡くなった後輩の家へ行った。友人はかつて、僕の芝居で彼女と共演していたので、その縁で線香を上げたいと言っていた。僕は僕で、彼女と最後に共演した、そしてそれが結果的に彼女の最後となった芝居の記録映像を、彼女のご両親に届けるという目的があった。 友人の車で彼女の家へ着き、仏壇のある部屋に案内されると、春にお邪魔したときにあったお骨を収めた箱はなくなっていた。そして、あの時と変わらない生前の彼女の笑顔の写真が、僕と友人を迎えた。
友人が最後に彼女と会ったのは、もう4年前になるだろうか。共通の知り合いの芝居を見に行って、その帰りに彼の奥さんと僕と彼女の4人で食事をしたのだった。その時の彼女の印象について、彼は 「それ以前にあったのが、一緒に芝居をやったときでかなり前だったので、途中の変化を見ていなかった。大人の女になったという感じだった。彼女に『綺麗になったね』と言ったら、照れて笑っていた。」 とご両親の前で語った。 そして、彼女の養成所時代のビデオを見て、 「殻を破っていたんだね。」 と感嘆したように言った後、 「でも、まだまだ試行錯誤の途上だったんだと思うよ。そんな感じがする。」 と、少し苦しそうに言い足した。彼は、この言葉を何度も繰り返していた。
今回、春にお邪魔したときにはなかった、彼女の遺した文章を見せていただいた。ひとつは、妹さんと2人で喫茶店に入って、どんなものだか分からないけれど語幹が気に入ったということでコーヒーを注文した話をまとめたエッセイ風の文章。ここには、彼女独特の言語漢学と、日常を捉える支店のようなものが感じられ、非常に懐かしさをおぼえた。 そして、もうひとつが、僕にとっては驚愕するものだった。 それは、彼女が独自にまとめた塾や予備校の手作りの参考書風のもので、「日本史」「日本美術史」「世界美術史」「フランス語習得」という一連の資料だった。親御さんが綴じたというその文章は、さすがに出版社に勤務していただけあってレイアウトも工夫され、表を使ったり、大事そうな字句には色アミをかけていたりしてまとめられていた。可能ならば、関連する図版や写真なども入れたかっただろう。 また、所謂参考書的な文言ではなく、彼女自身の感覚で捉えた部分と、事実の記述のバランスが絶妙で、読み物としても楽しめる感じになっていた。 「『私、今歴史の勉強をしているの』って言ってました。時間があったから、こんな物を作ったんですね。」と彼女の母親は言った。
彼女が元気な頃から歴史などに興味を持っていたことは知っていた。しかし、いくら時間があっても、体調が安定しない中、これだけのものを作るには相当な気力がいった筈である。 僕がそこに感じたのは、強烈な「生」への意思だった。彼女はたぶん、自分自身のためにこれをまとめていたのである。特に歴史や美術史などは、いずれそのエッセンスを使って自分自身の作品を創作するための下準備だったのだと思えてならない。または、そうしたいという意思の発露であったとも思える。 一方、こういう見方もできる。フランス語は彼女の専攻した語学で、フランス文学に対する彼女の興味・関心はずっとあり続けた。歴史に関しても然りであろう。すなわち、それらは彼女の人生の重要なエッセンスでもある。だから、彼女はそれを遺すことで、自分自身が生きていたという痕跡をこの世に残しておきたかったのではないのか。そうも思えてくるのだ。 詩や脚本といった完全な彼女の「創作」ではないものだからこそ、逆に直接的ではない「思い」の奔流が感じられ、いろいろなことを僕達に語りかけてくるようだった。
彼女の家を辞した後、車の中で友人は、 「ある時期、君と彼女が意気投合して、そのまま結婚しちゃうんじゃないかと思っていた。」 と言い出した。僕と彼女の様子を見ていてそう思ったらしい。 確かに、僕には彼女のことが好きだった時期がある。だが、彼女は僕の気持ちには答えなかった。その後も、いろいろなことを相談されたり、お互いの舞台を見に行き合ったりはしていたが、特にここ数年は、お互いの追求する表現の方向性が違ってきていることは、お互いに認識していた。しかし、その違いは、僕達を離れた場所から見ていた彼にとっては、ごく小さいものに思えたのだろう。 僕にとって、彼女がある種特別な存在であり続けていたのも事実である。そうでなければ、彼女の永遠の不在がここまで僕の中に影を落とすこともないだろう。
おまえとわたしは たとえば二艘の舟 暗い海を渡ってゆく ひとつひとつの舟 互いの姿は波に隔てられても 同じ歌を歌いながらゆく 二艘の舟 (中島みゆき 『二艘の舟』)
僕はかつてこの歌に、僕と彼女を重ねた。そして今、彼女の姿は波間に消えた。 いや、そうではない。彼女はきっと今も、ここではない別の海を、どこかを目指して渡っているのである。
きこえてくるよ どんな時も
おまえの悲鳴が 胸にきこえてくるよ 超えてゆけと叫ぶ声が ゆくてを照らすよ (中島みゆき 『二艘の舟』)
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