思考過多の記録
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2006年09月16日(土) |
「待ち望まれていた」命 |
秋篠宮妃の紀子さんの「お子様」悠仁君(さすがにこういう呼び方をするマスコミはないが)誕生の大騒ぎも、昨日の退院を機に漸く一段落しようとしている。今回、例の皇室典範改正問題と絡み、子供の性別が注目された。生まれたのが男の子と分かってからの「世間」の騒ぎ方を見ていると、もし女の子だったら、少なく見積もっても3割減くらいの盛り上がりだったのではないかと思ってしまう。
世間では、特に我々下下の、無産階級と言われる所謂「庶民」は、最近は女の子を喜ぶ傾向があるようだ。女の子は男の子に比べて手がかからないし、家の手伝いもよくしてくれる。大きくなれば母親の友達にもなる。おまけに、うまくすれば玉の輿に乗るかも知れない。そういうえば、親への暴力沙汰や親殺しも圧倒的に男の子の方が多いので、身の安全という観点から考えても女の子の方が望ましいといえる。 こうした世間一般に広がってきた考え方からは、皇室はあきらかにずれている。というか、浮いた存在になってきている。
男=世継ぎという前近代的な考え方がここではさも当たり前のような顔で通っている。法務大臣までもが男児誕生を願うような発言をしていたが、この国ではまだまだジェンダーバイアスが強いようだ。ある新聞記事によれば、男児誕生をきいて感激のあまり涙ぐんだ人までいたそうだが、もし女の子だったら、その人は涙ぐまなかったと断言できる。 僕はおめでたくないと言っているのではない。ただ、皇室という特殊な場所の事情が絡んでいるとはいえ、性別によってそのめでたさに差をつけるような態度や扱い方が気に入らないのだ。新しい命の誕生は、どんな事情であれ、そのこと自体は無条件にめでたいし、喜ばしいことである。男だと特別に喜ばれ、待ち望んだ命として歓迎され、女だと生まれたことのみの喜びで終わるというのは、僕は男だが、どうにも納得がいかない。同じ命である。男のそれの方が価値があるなどということはないはずである。歴史や伝統の上でそうだというなら、その意味を見直す必要だってあるだろう。
今回の出産は大変難しい手術だったそうである。妊娠の状態からいってそうだっただろう。つまり、今回は特に「生まれることができた」という、それ自体がめでたいこと、喜ばしいことだったのである。「男の子だったからよかった」のではなく、「生まれてきてよかった」ということである。愛子さんと悠仁君の処遇に今後差がついていくであろうことは想像に難くないが、2人の存在の価値に差があるということはないはずである。 繰り返すが、誕生とは本来そういうものである。命それ自体の価値に比べたら、「家」や「伝統」の継承が何ほどのものだろうか。秋篠宮家の子供でなくても、男の子でなくても、命の誕生は無条件に素晴らしい。そして生まれ出た命は、どんな人の子供でも、性別に関わりなく健やかな成長が望まれるのである。
杞憂ではあろうが、今後成長した愛子さんが、自分は待ち望まれてはいなかった命だったと、ある一定の数の人々が心の中で密かに落胆した命だったのだと、そう感じる日がこないとも限らない。僕にはそれが気がかりである。
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