思考過多の記録
DiaryINDEXpastwill


2007年08月15日(水) 「大きな物語」に対抗するために

 終戦記念日が訪れる度に感じるのは、戦争体験者の割合が減っていくことに対する危機感である。これは止めようもないが、確実にある変化を日本社会にもたらすであろうと思われる。いや、既にその変化は始まっていると見ていいだろう。



 戦争とは、「国のために戦って死ぬことは美しい」という「大きな物語」ではない。当時の個々の国民が、戦場で、そしてこの国のそれぞれの地域で体験した、惨めだったり、辛かったり、悲しかったり、苦しかったり、狂気だったり、やりきれなかったり、言葉を失ったり、そうした「個々の具体的な体験」の集積なのである。
 だからこそ、体験者の言葉は重く、貴重なのである。「大きな物語」によって隠されている戦争の実態を、彼等の証言は白日の下にさらすからである。また、それだけの迫力がある。戦争をイメージで捉えている人間には決して太刀打ちできない、鬼気迫る何かがある。



 しかしこの国は、半ば意図的に、そうした人達の貴重な証言による戦争の実態を、若い世代に遺産として伝えてこなかった。その結果、毎年毎年テレビでは、「8月15日って何の日だっけ?」という若者が登場することになる。
 そしてそうした若者が、例えば石原慎太郎が作った特攻隊の映画を見たりすると、素直に感動して、「大きな物語」に賛同するようになるのだ。



 状況は明らかに反戦平和を唱える者にとって年々不利になっていく。
「戦争は二度とごめんだ、嫌だ。」
という言葉は、体験者から発せられれば重みを持つが、戦争を直接肌で感じていない世代が口にすると、やはりイメージの世界、つまり「大きな物語」と同じ次元のものになってしまうのだ。
 そうなったとき、多くの国民にとって心地よく、分かりやすく、受け入れやすいのは「大きな物語」の方なのである。
 そして、国の舵取りをする人々は、そうした国民の空気を読み取り、国の方向性を徐々に、しかし大胆に転換するだろう。そのとき、「小さな物語」の集積なってしまった反戦平和という行き方は、極端に抵抗力を弱められているはずだ。



 例えば、防衛庁が防衛省に昇格になった。大したことではないと国民の大多数が思っただろうが、実はこれが、国の方向性の転換の重要な第一歩の一つなのだ。
 もしこの後、自衛隊が自衛軍になるようなことがあり、徴兵や軍隊経験の義務化等が行われるようなことがあれば、特攻隊やひめゆり部隊や空襲やそれぞれの戦場で亡くなった方々は、本当の「犬死に」となる。
 もし本気で戦没者を哀悼しようというのであれば、「戦後レジームからの脱却」などとは口が裂けても言えないはずだ。何故なら、戦没者の死を無駄にしないために、日本は戦争をせずに平和な社会を築き、国際社会で名誉ある地位を得るという目標を打ち立て、それを曲がりなりにも実行してきたからである。



 戦争に対する実感が失われていくこの国は、この後一体どこに行くのだろうか。僕達の次の世代が、何処かの国へ出征していく姿など、僕は見たくない。
 そのためには、戦争を知らない僕達はどう行動すればいいのか。本気で、真摯に考え、実際に行動すべき時にきている。


hajime |MAILHomePage

My追加