思考過多の記録
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2009年02月15日(日) |
僕達は蟹工船に乗っている |
昨年は「蟹工船」のブームだった。僕は恥ずかしながら読んだことがなかった。 読む前から、「プロレタリア文学は、あるイデオロギーを分かりやすく宣伝するための『道具』だ」と決めてかかっていたのである。 つまり、読む前から読んだ気になっていたのだ。
大体僕は高度成長期に生まれ、その後円高不況やバブルの時期に大学生となり、社会人になってからも、決して給料は高いとは言えないけれど、食えないということはなく、割と安易に過ごしていた。 だから、「プロレタリア」というくくりにあまり現実味を感じていなかったのである。 大学生の頃に、元活動家だった高校のOBの先輩から、いろんな話を聞いた。 例えばその先輩が塾の講師となり、その給料で車を買ったところ、元の仲間から「ブル転」した、と批判されたと言っていた。 因みに、「ブル転」とは、ブルジョワ、つまり金持ちに転向(転落?)したという意味である。 殆ど別世界の話だった。
つまり、その頃までは我々の社会は、何らかの問題はあっても、「経済一流、政治三流」と言われるようなぬるま湯的な状況にあった。 そのことが、実は我々の殆どが「ブルジョワ」などではなく、「プロレタリアート」すなわち「無産階級」、持たざる存在だということを忘れさせていた。 為政者や財界の計略にまんまとはまっていたわけである。 中曽根首相(当時)のもとで、本当のブルジョワのための政党である自民党が衆議院選挙において300議席を越える大勝利をおさめたのは、その証左と言えよう。
しかし、この流れが変わるのが、アメリカにブッシュ政権が誕生し、ネオリベ(新自由主義)的思想が「グローバリズム」の名において世界を席巻し、日本においては、アメリカに洗脳された小泉政権が誕生し、日本経団連が「新時代の日本的経営」を打ち出した2000年代後半からである。 日本はその前に「失われた10年」というのを経験している。銀行の不良債権の処理が思うようにいかず、中小企業への貸し渋り、貸しはがしが横行したのである。 僕の勤めている会社も、もろにこの影響を受け、賃金もボーナスも低迷した。 が、僕の場合は正社員であり、勤めている会社が年功序列の賃金体系を見直さず、賃金査定の制度もなかったため、まだダメージが少なくてすんだ。
しかし、この時期以降、学校を卒業して社会に出てきた世代にとっては、地獄のような状態だった。 先に挙げた経団連の施策に従って、若者達は篩にかけられ、派遣や期間契約、請負といった不安定で低賃金での労働を強いられた。「 その当時は、こういった状態を「働き方を自由に選択できる」とまるで労働者のための制度のように喧伝されたものである。 だがその実態は、今回の不況で分かったように、景気が悪くなれば真っ先に人件費削減のためのターゲットにされる、まさに企業にとって都合のよい雇用の「安全弁」の役割を果たしていたのであった。 「ワーキング・プア」という言葉がメディアに登場し始めたのは、それからだいぶ後の話である。が、実態はメディアが取り上げる随分前から、そういう状況が既に進行していたのだ。
問題は、今になって「派遣切り」などに遭っている人達が、あたかも「自己責任」でその働き方を選んだのだから、切られていくのも自己責任、つまりその人の努力が足りなかったからだ、といった論調が、特に上の世代や、当の財界などから聞こえてくることだ。 そして、今後さらに景気が減速すれば、正社員の雇用にも手を付けると企業は言っている。 事ここに至って、漸く我々はみな「プロレタリアート」だったのだと気付かされたのだ。 作家の雨宮処凛がヨーロッパで同じような状況に置かれている人々を指す「プレカリアート」という言葉に出会って、「これだ!」と思ったというが、意味としてはそう大きな違いはないだろう。 要は、国民の大多数は搾取される側で、一部の富裕層が富の大部分を専有しているという状態である。
「蟹工船」を実際に読んでみると、そこで働かされている漁夫や雑夫が、いかに過酷な条件の下に置かれていたかが分かる。ろくな食事も与えられず、朝から晩まで働かされ続け、寝泊まりする場所は不潔で狭い(「糞壺」と表現されている)。病気になった者は放っておかれて死んでしまう。その亡骸は、使い古しの麻袋に詰められ、海へ捨てられてしまうのである。 もしこの状況と、期間工や主に製造業の派遣労働者の労働実態が重なる部分があるとすれば、これは相当酷いことになっていると言わざるを得ない。 この本が共感を呼んだということは、しかし、それが真実なのだろう。 「蟹工船」の労働者達は、初めのうちは仕事に追われて、また「仕方がない」という精神状態の中でバラバラになっているが、あまりに酷い仕打ちと、自分達をこき使う浅川という監督に代表される搾取する側と自分達との待遇の違いに気付いたこともあり、徐々に団結して仕事をサボタージュするようになり、ついには要求書を提出するに至る。
ただ、残念なことに、今の日本ではこの「団結」が成り立っていない。 一部に「プレカリアート」のデモなどの動きもあるが、全体としては低調である。 赤木智宏というフリーライターは、「論座」2007年1月号に、一部で有名になっている『「丸山真男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。』という文章を書いており、彼はあちこちで「敵は正社員だ」と言っている。 要は、「内ゲバ」状態になっているのである。 敵を身近に設定し、それへのルサンチマンを語ることで満足してしまっている。 一方の正社員はと言えば、組合は「非正規雇用労働者の待遇改善を」と言いながら、運動の重点になっているにもかかわらず、実際の交渉の最終盤になれば、正社員の賃上げや雇用を優先する。 ある製造業の派遣社員が、あまりに過酷な労働のために、製品を持ったまま居眠りをしたら、それを見た正社員が、「気をつけてよね、高いんだから。」と言ったというエピソードがある。 これは、「蟹工船」で浅川が川崎船という、実際に蟹漁に出る船が行方不明になったときに、「労働者の一匹や二匹はどうなってもいいが、船が勿体ない」と言って捜索に出るのと同じである。 現場では、人間が人間として扱われていないのだ。 あるテレビのインタビューに答えた製造業の派遣労働者は、「自分達が所属しているのは、人事部じゃなくて工具部なんです。」と言っていた。 人間でない以上、すり切れるまで使って、いらなくなったら捨てられるのは当たり前なのである。 それが経営者達の論理だ。
この搾取の構造を、僕達はよく理解しなくてはならない。 そして、今まで現実味の乏しかった「蟹工船」が、こうしてまた脚光を浴びるような世の中で生きているのだという認識を持つことが大切である。 そして、労働者同士の連帯は不可能なのか、甘い汁を吸っているのは誰か、この構造を作り替えるにはどうすればよいのか、本当に「希望は、戦争。」なのか、一人一人が考えるべき時にきている。 もう一度強調しておくが、僕達は間違いなく「プロレタリアート」=持たざる人間なのだ。 そして富裕層の連中は、持たざる僕達から、さらに搾り取ろうとしている。
「蟹工船」は極限状態の世界だ。 これをいつまでも続けてよいのか。 こんな船のために、僕達は働いているわけではない筈だ。
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