思考過多の記録
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2009年02月27日(金) 新聞を読まない首相

 麻生首相が27日の衆議院予算委員会で新聞批判をしたそうである。
 政治家のメディア批判は、何も今に始まったわけではなく、江戸時代も明治時代も、いや、その前から、メディアと権力は戦ってきたし、それが正しい姿だといえる。
 しかし、麻生首相のやつは、ちょっと質が違うように思う。



 麻生首相は、「新聞を読まない。」と発言したそうだ。その理由がまたふるっていて、「偏った記事が多い。」からだそうだ。
「自分のことが書いてあると、大体(事実と)違うからあまり読まない。他の人もそうなんだろうなと思う。」
とまで言ったそうだ。
 これは要するに、「自分への批判には一切耳を貸さない。」ということであり、「世間の空気をあえて読まない」ということであろう。いわば、開き直りである。
 この手の首相は、「鈍感力」を備えた小泉氏、天然のKYと言われた安部氏がいるが、麻生首相はこの2人とはまた違うと思う。



 自分に人気がないのはマスコミの偏った報道のせいだと思い込んでいて、それを国会で発言してしまうのは、やはり問題だと思う。
 それは、国会という公の場での発言だけに、暗に報道機関に「俺に批判的な記事を書くな」と圧力をかけたと受け止められかねない。
 新聞は確かに無謬ではないが、全く中立的な新聞などないし、そんなものは存在価値もない。
 各社が独自の編集方針に基づいて紙面を作っているのであって、勿論その紙面は無色透明であるはずもない。
 また、新聞は「社会の公器」とも言われる。
 その時そのときの社会の姿や問題点を映し出し、現場の声や読者の反響などを載せている。
 つまり、社会の実態を掴もうと思えば、新聞やテレビ等のマスメディアや、最近このマスメディアに対抗して出てきた、個人やある団体によるネットラジオなどでの情報発信を利用するのが、一国民としては唯一の手段といえる。
 例えば、東京にいたら分からない地方の医療の実態等は、新聞やテレビでしか伝わってこない。
 そうした情報を完全に遮断して、社会のリアルタイムの姿や問題点を知らずして政策が作れるわけもなく、もしそうして作り上げられた政策があるとすれば、それは、社会の諸問題を解決するのに役立たない。



 首相は、おそらくそういう情報は自民党や政府を通して得られると思っているのだろう。
 しかし、新聞やテレビと同様、そうした情報にもバイアスはかかっている。
 そして、国民の側に近いのは、何だかんだ言われてもやっぱり新聞やテレビ等の報道機関なのである。
 自民党や官僚が上げる情報は、自分達の既得権を保護するため、または拡大するため、選挙で票を得たいためのもので、末端の国民のニーズとしばしばずれる。
 それだけをよりどころとして政策を作れば、一部の特定利益団体の利益になり、ひいては自民党(や公明党)の議席を確保するためにはなっても、国民のニーズにはこたえられない。
 しかも、そうした政策が、予算委員会で多数決によって決められ、他でもない一般国民の税金を使って行われるのである。
 その音頭を取っているのが、麻生首相というわけだ。
 定額給付金を強引に押し通したのは、その証左といえる。


 それよりもなによりも、自分への批判に耳を貸さないというのは、人間としてどうなのかと思う。
 しかも、それが一国の首相ともなれば、「どうなのか」では済まされない。
 自分や自分の政策への批判に謙虚に耳を傾け、修正すべきは修正し、もしそれでも実行したい政策があるのなら、きちんと国民に向って説得すべきだ(このことに関しては、稿を改めて書く)。
 主権者は国民であり、その負託を受けて仕事をするのが、総理大臣だからである。
 どうも麻生首相は、そのへんの基本的なスタンスがお分かりでないらしい。



 漫画ばかり読まないで、毎日一度は新聞各紙にきちんと目を通すのが、政治を行う者の基本的な姿勢だと思う。
 それが、国民に対する誠実さの表れではないかと思うがどうだろうか。
 麻生首相は政治家家系なので、政治家の顔しか見えていないし、政治家の声しか聞いていないように見える。
 べらんめい口調で呼びかければ庶民に近付いたと思っているとしたら、あまりに単純だ。
 繰り返しになるが、新聞を読むことは社会の今を知ることだ。
 そしてそれは、政治家にとっての必要最低条件である。
 社会の実態に目を閉ざし、自分への批判に耳を塞ぐのでは、もはや首相として、いや政治家としての資格はない。
 一刻も早く退陣して欲しい。
 そして、二度と政治家として国会に現れないで欲しい。


hajime |MAILHomePage

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