思考過多の記録
DiaryINDEXpastwill


2009年03月05日(木) メランコリー

 最近、意味もなく憂鬱である。
 先週あたりまで、例の「チェ・ゲバラ」に自分の演劇に臨む姿勢や現代の日本の状況を重ねあわせ、気分的に高揚していたのだが、まるでその反動のように、ここ数日落ち込んでいる。



 3月14日のJRグループのダイヤ改正で姿を消すブルートレイン「はやぶさ」と「富士」に乗りたいと思い、ヤフーオークションでチケットを取り、楽天サイトで探したビジネスホテルを予約した。
 九州内の移動用の特急列車の切符も買った。
 今週土曜日が出発の日である。
 本来ならうきうきしていい筈なのだが、どうも気分が沈んでくる。
 やめてしまおうかとさえ思ってしまう。
 最近いつもそうだ。
 前々から取っていた芝居のチケットも、当日が近付いてくるにつれて行くのが面倒に感じられてくる。
 それで結局行かなかった芝居もいくつかある。
 大抵は、「やっぱり来てよかった」となるのであるが、その行くまでがとても気分が重いのだ。
 行くことを自分で選んだにもかかわらず、「義務」に感じてしまうからである。



 僕のメランコリーの原因は、仕事への復帰の途上ということと、「芝居」から遠ざかっていることにある。
 今は「慣らし出社」ということで、1日2時間、午後1時から3時まで出社している。
 ただ、扱いは「休職中の自主的な慣らし出社」ということなので、賃金は出ない(「扶助料」という名のお金は支給される)かわりに、業務をする義務もない。
 2時間を、メールチェックや組合の資料、もって来た本等を読むことに費やしている。
「まず、そこにい続けることを目標にしましょう」という医者の指導にもかなっている。
 この不景気の中、派遣切りや正社員切りが問題化するご時世に、こんな恵まれた環境にいて何が不満なのかと言われるかもしれない。
 それはそのとおりだ。
 僕の会社は組合がしっかりしているし、経営者も建前上は従業員や組合の意見を最大限尊重するという立場にいてくれるので、こうなっているのだ。
 僕の雇用は確保され、いずれ仕事に復帰できるだろう。



 だが、それこそが「憂鬱」の種である。
 またこの会社で、あの日々が戻ってくるのかと思うと、正直反吐が出る。
 嫌いな会社ではない。
 社員も、概していい人が多い。苛められた課長とは離れた。
 しかし、それでも憂鬱である。
 それは、「義務」としての労働が発生するからだ。
 勿論、僕は労働力以外に売るものはない。
 本当は「才能」を売って暮らしたかったのだが、今のところ買ってくれる人はいない。
 しかし、「義務」の2文字が僕を押し潰す。
 一体僕は誰のために働くのだろうか。
 そして、誰のために生きるのだろうか。



 来年の秋、(僕にとっては)壮大な芝居の計画がある。
 まもなく、第一報をサイトで発表できるだろう。
 それが動き出せば、このメランコリーから抜けられるだろうか。
 しかしそれは(僕にとっては)莫大な資金を必要とし、一緒に暮らす年金暮らしの父母からはまた疑惑と非難の目が向けられるであろう。



 今僕は、鬱憤を晴らすために、狂ったようにネットショッピングをしている。
 毎週2,3日回は宅配便業者が僕宛の荷物を運んでくる。
 どう考えても異常だ。
 しかし、僕は自分を止められない。
 原因は薬だろうか。それとも、別の何かだろうか。



 とにかく、何か出口のない場所に閉じ込められてしまっているという幹事が拭えない。
 どこにも進めないので、同じ場所であがいているという感じだ。
 それが僕を買い物に走らせ、毎月の返済額を増やす。
 収入は減ったにもかかわらず。



 まるで全てが他人事のようだ。
 自分の憂鬱すら他人事に感じる。
 父や母の憂鬱が乗り移っているかのようだ。
 この状態からいつ抜け出せるのだろうか。
 このままでは、自らの体に傷を付けてしまいかねない。


hajime |MAILHomePage

My追加