思考過多の記録
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2009年04月03日(金) 真の「知識人」はどこに

 今僕は、大学時代に買った講談社学術文庫『マルクスその可能性の中心』(柄谷行人)を読んでいる。
 当時は、最初の方をチラッと見ただけで難しそうだと感じたので、いつか理解できるようになるときまでとっておこうと思っていたのである。
 しかし、僕はその後、柄谷氏の著作にはまり、『探究�機戞愧亀罩供戞愼眄�と遡行』『日本近代文学の起源』『批評とポストモダン』『世界共和国へ』等等、とにかく柄谷氏の名前がある本は、共著や編著、対談ものも含めて殆ど読んだ。
 一番最近(といってももうだいぶ経ったが)の『トランスクリティーク』はあまりに大著なので読んでいないが。
 柄谷氏の文章を読んでいると、難しいが、頭がクリアになってくる感覚がある。
 例えば、今読んでいる『マルクスその可能性の中心』で柄谷氏は、マルクスの思想は、マルクス主義者が語る「史的唯物論」などにあるのではなく、まさにマルクスの『資本論』等の著作のテキストの中に存在する、と言っている。
 さらに、それはマルクスの思想的成熟とか、時代背景とか、そういった文脈と無関係に、ただマルクスの他の著作や、他の人間の言説の「差異」の中にしかない、とも言っている。



 何を言っているのか分かりにくいと思う。
 早い話、「マルクスとはこういう考え方を持った人で、それはこの著作に書かれている」というとらえ方は誤りだ、と言っているのである。
 どうしてそうなのか、ではマルクスをどう読めばいいのか、それは今読んでいる最中ということもあって、ここでは説明できない。
 それに、柄谷氏の今の考えを敷衍すれば、柄谷氏の思想は、柄谷氏の著作のテキストの中からしか出てこないので、僕が語るべきではないだろう。
 ことほど左様に、柄谷氏は僕達が当たり前だと思っていた考え方をひっくり返し、物事の本質に迫る。
 こんな僕の頭脳レベルなので、どこまで理解できているかは不明だが、それでもどの著作でも僕は新しい発見をしたし、わくわくしながら読むことができた。
 例えば湾岸戦争のような大きな出来事が起きたとき、この人ならどう考えるのか、訊いてみたくも思った。
 今回の金融危機などは、柄谷氏も大きな関心を寄せ、マルクスが『資本論』で分析の対象にした「貨幣」のあり方にも関わってくるので、是非どこかに文章を書いて欲しいものである。



 考えてみると、こういう思想家や学者がめっきり少なくなった。
 浅田彰はだんまりを決め込んでしまったようだし、上野千鶴子は「ご隠居」してしまった。
 見田宗介もまともな社会学者でちゃんとした文章を書くが、ちょっと「昔の名前で出ています」とうい感じになってきた。
 吉本隆明は、最近何か出したようだが、何だかあの人の文章は大上段に構えすぎという感じがして、読む気になれない。
 宮台真治は一時期僕も読んだが、最近は何となくピントがずれてきた。
 今期待できるのは、柄谷氏が育てた(?)東浩紀くらいだろうか。あとは、大澤真幸も最近の世相に合った分析を加えていて、内容もそこそこ的を射ている。
 しかし、かつてのように、圧倒的な存在感と鋭い分析力で文壇や社会に影響力を与えるような学者は見当たらない。
 教育学者、文化人類学(民俗学)者となると、さらに状況は惨憺たるものだ。
 経済学などは、今主流の思想は、社会の「害悪」にすらなってしまっている。代表格は、竹中平蔵氏や勝間勝代氏である。
(ちなみに、『資本論』の副題は、「経済学批判」である。)
 今僕は社会科学系にしぼって書いているが、理科系も似たようなものだろう。
 確かに、最近物理学系の人がばたばたとノーベル賞を取ったが、何をやっているのか社会への発信力がない。
 例えば、亡き朝永振一郎氏や遠山啓氏は、文系である僕も知っていた。
 両氏とも、難しい理論を分かりやすく書く能力を持っており、僕も両氏の著作を読んだことがある。



 何故、文科系でも理科系でも「巨星」が登場しないのか。
 大学院の教育はどうなっているのだろう。
 知識人は、社会にとっては不可欠な存在である。
 我々庶民は大局を見る力が弱く、日々の暮らしに追われており、また目先の損得勘定やそのときの感情で動かされやすい。また、分からないものは面倒なものとしりぞけ、自分達にいいように物事を解釈する。
 また、定見を持たず、カリスマ的な人物の言動や、マスメディアの論調に流されやすい。
 そんなときに、社会の現状の正しい把握と深い洞察による分析を行い、ありうべき社会の方向性を示す、場合によっては世の中の風潮に警鐘を鳴らしたり、間違った政策にストップをかけたりするのが、知識人が担うべき役割である。
 そんな人材が、この国から消えていこうとしている。
 何しろ、桜井よし子が知識人のようにもてはやされているのだから、世も末という他ない。



 『マルクスその可能性の中心』は、標題の論文を含めて4つの論文が収録されている。
 あとがきと解説も含めて254ページの本だが、大変読みでがある。
 集中して、頭をフル回転させなければ読めない。 
 それは、僕の頭の中にある固定観念が打ち破られ、新たな思想が導入される過程がずっと続くからである。
 自分の中で消化するのにかなりの時間とエネルギーを要する。
 勿論、それでも完全に消化はしきっていないと思う。
 でも、是が非でも理解したいと思われる文章がそこにはある。
 本当に最近こうした文章を書ける人にお目にかからなくなった。
 『マルクスその可能性の中心』の初版は1978年、すなわち今から30年前だ。
 それでも、その中身は古びていない。
 マルクスの『資本論』が、本当は古びていないように。



 この激動の時代に、真の知識人の登場を願うのは僕だけではないだろう。
 マスメディア向けの「解説者」ではない、もっと大きな問題を長い時間をかけ、深く探究していく知識人の登場を。
 「大きな物語」の終わりが語られる現代、真の知識人の存在なくしては、我々「迷える子羊」は、集団で水の中へと雪崩を打って飛び込んでいくしかなくなってしまうのだ。


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