思考過多の記録
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今日はさりげなく誕生日なのだが、特にこれということもなく過ごした。 ただ、mixiでは生年月日を登録しておくと、「今日は○○さんのお誕生日です」というメッセージがマイミクさんには表示されるようになっている。 そんな関係もあるのか、mixiのメッセージや携帯メール等で、わざわざお祝いのメールをくださった方もいらっしゃった。
もう実年齢を書くのも憚られるほどの歳になってしまったので、書かないが、10年前に今の自分がこうなっていようとは、全く想像だにしていなかった。 遅くとも、もう家庭を持っているはずだった。 勿論、心の病と闘っているなどとは、頭の片隅にもないシチュエーションだった。
その意味で人生は本当に何が起きるか予測がつかない。 だから面白いのだと思っていられるうちはいいのだが、残りも少なくなってきた段階で、予測がつかないというのはちょっと困った話だ。 「予測がつかない」と言えば言葉はいいのだが、要するに「お先真っ暗」というやつではないのか。 若いうちは、「予測がつかない」ことは、「可能性」の大きさと同義で語られていた。 が、中高年ともなれば、「可能性」よりも「不確実性」の方が大きくなってしまう。 第一、自分が中高年に分類される日が来ようとは、子供の頃には思いもよらなかったことだ。 この分だと、確実に(とまでは言えないが)「後期高齢者」という分類に入る日も来るというわけである。この点だけは、はっきりしている。
勿論、来年の誕生日を迎えることができるかどうかすら定かではない。 もしできたとして、またここに文章を書ける状態かどうかは保証の限りではない。 何とか今年中に自分のパートナーを得たい、来年はそのパートナーと一緒に誕生日を迎えたいと強く願っているのだが、これなどは全く実現可能性のない話と言っても差し支えはない。
とどのつまり、誕生日なるものは、歳とともにその重要性の意味合いがかわってくるものだ。 幼年期から青年期にかけては、成長の証として。 それを過ぎると、人生をどれだけ生き抜いてきたかを表すものとして。 そして壮年期も過ぎれば、「今年も生き延びた」と確認するためのものとして。 喜びが徐々に薄れていくのはやむを得まい。
それでも、いくつになっても、自分以外の誰かに覚えていて欲しいと密かに願ってしまう特殊な日。 それが誕生日というものであろう。 取り敢えず、今年も生きながらえることができた。 来年、再びこの文章を読むことができるかどうかは定かではないにしても。
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