知らんけど

2006年11月28日(火)

昔の日記を読み返していると、恥ずかしい気持ち半分と懐かしい気持ち半分になる。そのまま読み続けていると、懐かしさが大きくなってきて、いつの間にか書いていたその時の気持ちを思い出していたりする。昔のサラリーマン時代の辛かった時代が蘇ってきて、胸が苦しくなった。今がどんなに楽で恵まれているか。いや、サラリーマン時代は振り返ってみると収穫の多い貴重な2年間だった。実質は多分普通の3倍くらいの仕事量だったかもしれない。少なくとも今の職場の5倍の仕事はしていた。

苦労話として自慢したいところもある。これだけ頑張ったということを知らない人に認めてもらいたいという気持ちは誰にでもあるのだから隠すことではない。しかし、同時に本当に分かってもらえるのは、一緒に働いていた上司や同期だけで、体験のない人に自慢げに苦労話をしたところで、それは実際には伝わらない。ただ、今の職場で「忙しい。」とか「ちょっとそれはできません。」なんて言葉を聞くと、内心は「はぁ?」って思ってしまう。「忙しいなら残業しろよ。」「できないじゃなくてできる方法を考えろよ。」と思う自分がいる。

前のサラリーマン時代の基準が体に染み付いている。一度、経験したある意味密度の濃い世界は、体に染み付く。不思議なことに、どれだけ怠けたいと思って実際に怠けていても、この体に染み付いた基準はムクムクと起き上がってくる。満足できなくなるのだ。以前のような超がつくほどの忙しさや仕事量は要らないにしても、この環境は自分の能力を発揮するには不十分だと体が教えてくれる。もう一度言うが、体が教えてくれる。頭じゃない、体が教えてくれる。

話は飛ぶが、「理解する」と「納得する」はかなり違うということを今日の帰り道に思った。たまたま患者さんのご家族に、僕と同じ高校の出身の方がおられて、母校の校訓の話になった。「自由、自治、創造」これが母校の校訓である。高校時代は眼が死んでいた。学校が嫌いで、高三の時に退学する相談をした。結局、それだけの勇気がなくて卒業はしたが、意味を感じずに過ごした高校時代だった。別にそれはどうでもいいのだが、それだけ嫌いだった高校の校訓だけは忘れずに覚えていた。「自由、自治、創造」高校生の時は、その校訓の意味を「理解」していたつもりだった。今までも。でも、最近になってようやくこの意味が「納得」できた。

納得とは体が感覚として受け入れること。そんな印象を強くした。自分に正直にと言うことがあるが、自分って何だよ。って思っていた。たぶん、体に正直にということなんだろうな。

蛇足だが、人間は表面的な感覚受容器からの感覚だけではなくて、内臓からも刺激入力を受け知覚している。体が感じるというのは、そうした内臓からの知覚も大きな意味を持つんじゃないだろうか?


 < 過去  INDEX  未来 >


T [MAIL]

My追加