
ひとりごと〜リターンズ〜
不知火
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2001年03月11日(日) ■ |
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家族の標本〜我が家の場合〜(その3) |
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容態が安定していると昨日書いた。 正しくは、膠着している、というべきだったかもしれない。
寝ているばーさんの横で、父親と私はまた話しこんでいた。
若い頃のばーさんの話、私の知っているばーさんの話。 負けん気が強くて、最後まで嫁と同居しなかった。 金はないくせに、一人暮らしを好んだ。 ケンカばかりだった伯父とばーさん、親父とばーさん。 でも、戦後女手一つで息子二人を育てたばーさん。
わがままばっかりだったけど、こんな時には結局みんな集まってくれてる。 後は・・・兄貴夫婦だけだな。 今日のAM8時45分、新婚旅行から帰ってくる予定になっている。
「間に合うかな・・・」 従姉たちは、「せめてそれまではがんばって」と語りかけていたものだが、 私はそうは思わなかった。
もし、間に合わなかったら? 兄貴夫婦はショックだろう。 ばーさんだって、かわいそうじゃないか。
もう、こんな状態の人にプレッシャー与えてあげるなよ。
「最後に会えたら・・・」 従姉たちは云う。 確かに兄貴には悪いけど、でもやっぱり仕方ないよ。 会えた人は、会えた人で。 会えなかったら、会えなかったで。 それなりに、それぞれの心に残るんだから。
危篤のばーさんの横でそんな事を考えるのは不謹慎なのだろうか?
明け方あたりから、容態が変化した。 急変、というわけではない。 少しずつ、身体のあちこちにつけられた管から血が混じり始めたのだ。 呼吸も心なしか弱くなっている。
しかし、すぐにどうこう、というわけではなかったので、 親父は予定通り兄たちを迎えに関空へ向かった。 寝不足で、こんな状態のばーさんを残して。 親父を行かせるのは凄く気がひけた。 今日ほど、きちんと車を運転できない己の愚かさを悔やんだ事はなかった。
やがて伯母が来た。 「おばあちゃん(このばーさんね。)の夢見たんよ。 私のこといつもどおり呼んでたんやわ」
そして気になったので朝から来たそうな。
私は伯母に一通りの状況を説明した。
そしてしばらくして、ばーさんは息を引き取った。 当初からの親父と伯母の意向で、延命処置はしなかった。
8時15分。 それは兄貴たちの飛行機が予定より早く日本に到着したのと、 ちょうど同じ時間だった。
その夜は通夜となった。
珍しく家族がそろうというのは結局こんな時ばかりだ。
伯母と忠志兄は、通夜から葬儀への手順をてきぱきとこなしてくれた。 昨年の伯父の時のノウハウが生きているのだ。
通夜には思った以上にたくさんの人が来られた。 そして、帰っていった。
後に残ったのは3人。 私と親父と、忠志兄である。 伯父の時と同じメンバーだ。
色々な思い出話をしながら親父は明日の挨拶を考えていた。 こうして夜は・・・ふけていく・・・・。
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